函館氷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/22 09:27 UTC 版)
函館氷(はこだてこおり)とは北海道函館市で作られていた天然氷のブランドである。五稜郭氷とも呼ぶ。
概要
五稜郭の濠へは亀田川から箱館龜田五稜郭御上水にて常に水が供給されていて飲むのに適していた。1869年(明治2年)、中川嘉兵衛が視察、有望と判断し、1870年(明治3年)に開拓使より濠1万7000坪、7年間の使用権を獲得、翌1871年(明治4年)結氷670トンを切り出しに成功し、イギリス、アメリカといった外国商船を利用し、横浜経由で東京永代橋の開拓使倉庫を貯氷庫にし、京浜市場で販売したのが始まりである。従来のアメリカのボストンからの輸入氷「ボストン氷」に対し品質面、価格面ですぐれており函館の特産品、宮内省御用達になったが、その裏では新池の開削費、運賃、販売競争、自然条件が重なり経営的には厳しかった。1890年(明治23年)に五稜郭外壕貸与規則が変更されて競争入札になったのをきっかけに亀田郡神山村字下川原(現・函館市神山1丁目14番地)に製氷池を設け、1891年(明治24年)、内国勧業博覧会で竜紋の賞牌を受け、「竜紋氷」とも知られるようにもなった。1896年(明治29年)に北原鉦太郎に事業を譲り、1940年(昭和15年)頃まで製造を続けた[1]。
函館氷の成功を見て、日本の各地で天然氷の採取販売が盛んになったが、当時の保冷剤であるおが屑が品薄になって相場が高騰したり、不衛生な水で作られた氷が社会問題を起こした[2]。
新しい製氷池
五稜郭の堀の貸与規則が変わったあと、神山村に新たに約900坪、4枚の製氷池を新設(現在の函能外職員駐車場)した。労働者は地元で確保したことから、村人は雪が降ると「ゼンコ降ってきた」と喜んだ。仕事がある時はラッパにて合図をした。一時間あたりの時給は8銭(当時)で農閑期の収入になった[1]。
脚注
参考文献
- 冨原章 『風雪の一世紀 函館水道創設事業史料』1990年。
- 神山三00年誌 神山開村三00年記念祭実行委員会 昭和60年
- 市史余話9「函館氷をめぐる人々」 函館市「市政はこだて」No.533 1984年2月号 菅原繁昭 2010年2月20日閲覧
- はこだて人物誌「中川嘉兵衛」財団法人函館市文化・スポーツ振興財団「ステップアップ」vol.95 1997年2月号 2010年2月21日閲覧
- 開港場物語(38)「アイスクリーム 初販売米人がサロンで」 読売新聞 2010年2月21日閲覧
- 氷の歴史(3)―『天然氷の販売』 北陸冷蔵株式会社 2010年2月22日閲覧
- ありがとう五稜郭分館(5)/函館氷/堅硬透明 ほんのり甘み 函館新聞 2007年11月7日 2010年2月24日閲覧
- 函館百珍と函館史実「函館氷の始祖中川嘉兵衛翁」 函館市 2010年2月26日閲覧
関連項目
函館氷
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「函館氷」および「ボストン氷」も参照 日本において、冬以外に氷で冷やした飲み物が飲めるようになるのは、明治になってからになる。中川嘉兵衛という実業家が、明治4年、北海道・函館市で初めて天然氷の採氷事業に成功したことに始まる。嘉兵衛はまず、富士山の山麓に500坪の採氷池を掘り、そこから約2000個の天然氷を得ることに成功する。しかしこの氷は、江尻港(静岡市)までの8里(約31km)は馬で、その後は帆船を借りて一般貨物の2倍の運賃で横浜まで運んだものの、横浜到着時には全て溶けて水になってしまっていた。この後2年間休業したのち、諏訪湖、日光、釜山、青森からと、毎年場所を変えて氷を採り、横浜へと運搬したがいずれも失敗に終わった。しかし、嘉兵衛は諦めることなく、函館に渡り、6回目の採氷に挑戦した。この年は温暖であったため、僅かな氷しか採れず、250トンの氷を横浜に輸送することが出来たものの、採算は取れなかった。しかしこれに手応えを感じ、明治2年、函館の五稜郭の外濠を借り受け、亀田川の水を引き入れて7回目の採氷を行った。この7度目の挑戦にしてやっと事業が成功。明治5年(1872年)の『新聞雑誌』には、「製氷界の恩人――中川嘉兵衛」の見出しで、 「 昨夏横浜の氷会社より氷を売り出し、其価甚だ安く衆人の賞美大方ならず。(中略)文政天保の際に、奢侈を極めし貴人富豪と誰も知らざる所の一味を、一貧生にして飽まで消受すること、明代の余沢ならずや。 」 と述べられ、その事業が称賛されている。これまで簡単に手に入れられなかった夏場の氷が、安く手に入るようになり、人々が夏場に冷たいものにふれる始まりになった。また明治7年(1874年)の『東京日日新聞』においても、函館の天然氷採取が取り上げられ、功績が称賛されている。 「 氷の世に大功ある事は、第一熱病には必要の薬品にて、氷室ありし以来、炎症を助けしこと少なからず。第二暑中人意を快くし、第三我国の一産物を開けり 」 製氷事業は病人の熱さましとして、また暑い夏の飲食用として、人々に歓迎された。
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