概略史とは? わかりやすく解説

概略史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:09 UTC 版)

音楽史」の記事における「概略史」の解説

先史古代における日本列島楽器音楽について『古事記』『日本書紀』などの文書のほか、考古学的な考察によっても研究されている。縄文時代には、楽器として使用されたとみられる土製品土鈴などが存在した考えられ、これらは装飾的な縄文土器とともに祭祀用いられていたとみられている。弥生時代には、青銅製の銅鐸存在し、埋納され祭祀中心であった考えられているほか、同時代のものとして和琴などの楽器出土している。 5世紀ごろから8世紀ごろにかけては、朝鮮半島中国など外国から音楽輸入された。701年大宝律令にて雅楽寮設立されたが、その人配置は、設立当時和楽日本古来からあった音楽中心から、徐々に唐楽三韓楽といった外来音楽中心へと変化しており、外来音楽浸透していった一面表している。 平安時代初期には朝鮮半島国家制度変わり、また遣唐使停止されたことにより、外国からの音楽輸入がほぼ途絶えた。これと、平安朝入って50年ごろに行われた楽制改革などにより、外来音楽日本古来音楽とともに当時日本に合う形へと整理されていった日本式雅楽成立するのはこの時期である。 一方鎌倉時代・室町時代には古来からの日本音楽流れ汲んだ音楽主流になった。この時代大成したものの中に猿楽、そしてそこから発展した能・狂言などがある。以降キリシタンによるオラショなどの形で西洋音楽一部入り込んだものの、基本的に江戸時代鎖国政策あいまって日本独自音楽いわゆる邦楽」が進化遂げた俗楽とも呼ばれる浄瑠璃地歌長唄筝曲などが発展する明治時代以降学制頒布の後に音楽取調掛設立されるなど、国策として西洋音楽輸入なされた。この動き始まった当時は、庶民含めて邦楽根付いていたが、徐々に西洋音楽たしなむ国民多数占めようになった明治後期には瀧廉太郎により日本語歌曲ピアノ曲作曲され日本人による西洋音楽作曲が行われるようになった日本のポピュラー音楽大衆歌曲である流行歌歌謡曲つくられいく。 大正、昭和期にかけて、、山田耕筰信時潔などの手日本の民族性や近代音楽語法なども取り入れつつ、より本格的な西洋音楽作曲されるようになった戦後には松平頼則柴田南雄らが音列技法はじめとして現代音楽取り入れたほか、欧米ポップミュージック導入しながら、民謡音階なども取り入れられ演歌なども一世博した

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概略史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 23:30 UTC 版)

ヴィエンチャン王国」の記事における「概略史」の解説

元々ラオスには、ラーオ族による統一王朝としてラーンサーン王朝王都ヴィエンチャン)が存在していた。しかし、1694年にスリニャ・ウォンサー(英語版)王が死去すると、次期国王の座を巡って王位継承争い生じ1698年にサイ・オン・フェ(セタティラート2世)が王位就任したことで、争いは一応のおさまりはみせた。しかし、その過程追放されたスリニャ・ウォンサーの血族などに禍根を残す形となり、後にラーンサーン王朝分裂していく契機となってしまった。 1706年、スリニャ・ウォンサーの孫にあたるキン・キッサラートとインタソームの兄弟ルアンパバーン王国独立宣言した。このとき、セタティラート2世には独立勢力排除するだけの軍力がなく、独立承認する外部援軍要請するかの選択迫られた。セタティラート2世王はアユタヤ王国サンペット8世援軍要請し、翌1707年アユタヤ軍勢ヴィエンチャン到着した。しかし、ラーンサーン王朝弱体化を狙うアユタヤ軍勢ヴィエンチャンから動こうとはせず、結果的にセタティラート2世ラーンサーン王国ルアンパバーン王国ヴィエンチャン王国二国分断する形で和議を取らざるを得ない状況追い込まれた。 ルアンパバーン王国分離後ヴィエンチャン王国勢力圏では、ルアンパバーンに随する形で離反企て分裂目指す動き各地大きくなった。この動き1709年にムアン・ナコンの領主プラ・プロムラーサーの反乱の鎮圧で一旦は混乱下火になったが、1713年にはアユタヤ王国計略によりチャンパーサック地域チャンパーサック王国として分離・独立させられてしまった。 セタティラート2世死後1730年王位継承したオン・ブン(プンニャサーン)王は、隣国であるトンブリー王朝シャム)のタークシン王ヴィエンチャン領土であったウドーンターニーウボンラーチャターニー図版したため1770年タークシン王使節派遣し同盟関係樹立することで国内安定化させた。しかし、同盟双方の思惑から円滑な進行はならず互い想いわずかなズレ生じていた。 1773年ヴィエンチャン王国ルアンパバーン王国侵攻を受けるが、この時プンニャサーンは、駐屯地が近いという理由から、同盟関係にあったシャム援軍求めず当時シャム戦争状態にあったコンバウン王朝ビルマ援軍要請した。これにより、チェンマイ援軍要請受けたビルマ軍司令官のポー・スパラは、要請受けたことをルアンパバーン側へ通達することで、戦わずして争い平定し両国権力下に置くことに成功した。翌1774年にプンニャサーンはビルマ協同してシャム派兵した為、シャムタークシン王疑心暗鬼に陥り、ヴィエンチャン王国信用しない表面上だけの外交を行うようになった1777年ビルマ侵攻阻止することに成功したシャムは、その足でヴィエンチャン侵攻・同都を占領しヴィエンチャン王国属領とした。 シャムエメラルド仏捕らえた多数貴族等を戦利品として1780年撤兵したが、プンニャサーンはシャム侵攻時に逃亡したカムクートの地で1781年死亡した。その為、タークシン王ヴィエンチャン新し王としてナンターセン・ポンマラオを擁立した1782年にカサットストックがラーマ1世としてチャクリー王朝樹立すると、ヴィエンチャン王国シャムから大幅な自治権認められるようになった。 しかし一方でヴィエンチャン王国1787年よりシェンクワーンの領土巡って西山朝ベトナム)との対立激化した。この対立はゲーアン(乂安)のカイサーンによってベトナム側勝利もたらされ以後シェンクワーンはヴィエンチャン王国領でありながらベトナム王朝西山朝、及び阮朝)の勢力下に置かれるという、半独立した非常に不安定な地域となった。 ナンターセン・ポンマラオの死後王位は弟のインタウォンが継承し1798年から1799年にかけてシャムが行なったビルマ残留掃討作戦参加した。この時司令官に任命され副王チャオ・アヌウォン高く評価したシャムは、1803年にインタウォンが死亡するチャオ・アヌウォンセタティラート3世として王位に就かせた。セーターティラート3世治世(1804 - 1829)でヴィエンチャン王国黄金期迎え1807年の新王宮建立1808年のタート・パノム橋の架設、及びシー・ブンファン寺院ノーンカーイ)の建立1824年セーン寺院建立など、各地当時土木技術の粋をこらした寺院インフラ整備が行なわれた。 1827年セタティラート3世王室会議開きシャムチャクリー王朝国内外情勢混乱している状況判断した上で属国という立場からの独立作戦提唱した。この作戦副王らの反対にあったが、実施することで決議され密かにバンコクへの派兵進めた。しかし、これを察知したルアンパバーン王国や、作戦自体に不満を持っていた副王ティサらによる作戦漏洩により、作戦途中でシャムに感づかれる形となり、王都ヴィエンチャンシャム占領される事で反乱失敗終わった反乱失敗後、セタティラート3世逃亡計ったが、1828年シャム軍に逮捕され獄中死亡したシャムヴィエンチャン占領後セタティラート3世派によるヴィエンチャン王国の再攻を懸念し王都徹底的に破壊した上でヴィエンチャン王国主権ラーマ3世の物としてシャム領土編入した。これにより、事実上1828年ヴィエンチャン王国滅亡し以降ラーンサーン王朝系譜を汲む王国であるルアンパバーン王国の力がラオス大きくなる

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概略史

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ラーンサーン王朝」の記事における「概略史」の解説

詳細は「ラオスの歴史」を参照 王朝歴史は、統一ラーンサーン時代1353年1710年前後)と三国時代1779年まで)に分けられる

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