概略史
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先史・古代における日本列島の楽器・音楽については『古事記』『日本書紀』などの文書のほか、考古学的な考察によっても研究されている。縄文時代には、楽器として使用されたとみられる土製品や土鈴などが存在したと考えられ、これらは装飾的な縄文土器とともに祭祀に用いられていたとみられている。弥生時代には、青銅製の銅鐸が存在し、埋納され祭祀の中心であったと考えられているほか、同時代のものとして和琴などの楽器も出土している。 5世紀ごろから8世紀ごろにかけては、朝鮮半島・中国などの外国から音楽が輸入された。701年の大宝律令にて雅楽寮が設立されたが、その人員配置は、設立当時の和楽(日本古来からあった音楽)中心から、徐々に唐楽・三韓楽といった外来音楽中心へと変化しており、外来音楽が浸透していった一面を表している。 平安時代初期には朝鮮半島の国家制度が変わり、また遣唐使が停止されたことにより、外国からの音楽輸入がほぼ途絶えた。これと、平安朝に入って約50年ごろに行われた楽制改革などにより、外来音楽も日本古来の音楽とともに、当時の日本に合う形へと整理されていった。日本式の雅楽が成立するのはこの時期である。 一方、鎌倉時代・室町時代には古来からの日本音楽の流れを汲んだ音楽が主流になった。この時代に大成したものの中に、猿楽、そしてそこから発展した能・狂言などがある。以降、キリシタンによるオラショなどの形で西洋音楽が一部入り込んだものの、基本的には江戸時代の鎖国政策もあいまって、日本独自の音楽、いわゆる「邦楽」が進化を遂げた。俗楽とも呼ばれる浄瑠璃、地歌、長唄、筝曲などが発展する。 明治時代以降、学制頒布の後に音楽取調掛が設立されるなど、国策として西洋音楽輸入がなされた。この動きが始まった当時は、庶民を含めて邦楽が根付いていたが、徐々に、西洋音楽をたしなむ国民が多数を占めるようになった。明治後期には瀧廉太郎により日本語の歌曲やピアノ曲が作曲され、日本人による西洋音楽の作曲が行われるようになった。日本のポピュラー音楽・大衆歌曲である流行歌・歌謡曲もつくられいく。 大正、昭和期にかけて、、山田耕筰、信時潔などの手で日本の民族性や近代音楽の語法なども取り入れつつ、より本格的な西洋音楽が作曲されるようになった。 戦後には松平頼則や柴田南雄らが音列技法をはじめとして現代音楽を取り入れたほか、欧米のポップミュージックを導入しながら、民謡の音階なども取り入れられた演歌なども一世を博した。
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概略史
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元々ラオスには、ラーオ族による統一王朝としてラーンサーン王朝(王都:ヴィエンチャン)が存在していた。しかし、1694年にスリニャ・ウォンサー(英語版)王が死去すると、次期国王の座を巡って王位継承争いが生じ、1698年にサイ・オン・フェ(セタティラート2世)が王位に就任したことで、争いは一応のおさまりはみせた。しかし、その過程で追放されたスリニャ・ウォンサーの血族などに禍根を残す形となり、後にラーンサーン王朝が分裂していく契機となってしまった。 1706年、スリニャ・ウォンサーの孫にあたるキン・キッサラートとインタソームの兄弟がルアンパバーン王国の独立を宣言した。このとき、セタティラート2世には独立勢力を排除するだけの軍力がなく、独立を承認するか外部へ援軍を要請するかの選択に迫られた。セタティラート2世王はアユタヤ王国のサンペット8世に援軍を要請し、翌1707年にアユタヤの軍勢がヴィエンチャンに到着した。しかし、ラーンサーン王朝の弱体化を狙うアユタヤ軍勢はヴィエンチャンから動こうとはせず、結果的にセタティラート2世はラーンサーン王国をルアンパバーン王国とヴィエンチャン王国の二国に分断する形で和議を取らざるを得ない状況に追い込まれた。 ルアンパバーン王国の分離後、ヴィエンチャン王国の勢力圏では、ルアンパバーンに随する形で離反を企て、分裂を目指す動きが各地で大きくなった。この動きは1709年にムアン・ナコンの領主プラ・プロムラーサーの反乱の鎮圧で一旦は混乱は下火になったが、1713年にはアユタヤ王国の計略によりチャンパーサックの地域がチャンパーサック王国として分離・独立させられてしまった。 セタティラート2世の死後、1730年に王位を継承したオン・ブン(プンニャサーン)王は、隣国であるトンブリー王朝(シャム)のタークシン王がヴィエンチャンの領土であったウドーンターニーとウボンラーチャターニーを図版にしたため、1770年にタークシン王へ使節を派遣し、同盟関係を樹立することで国内を安定化させた。しかし、同盟は双方の思惑から円滑な進行とはならず、互いの想いにわずかなズレが生じていた。 1773年、ヴィエンチャン王国はルアンパバーン王国の侵攻を受けるが、この時プンニャサーンは、駐屯地が近いという理由から、同盟関係にあったシャムに援軍を求めず、当時シャムと戦争状態にあったコンバウン王朝(ビルマ)援軍を要請した。これにより、チェンマイで援軍要請を受けたビルマ軍司令官のポー・スパラは、要請を受けたことをルアンパバーン側へ通達することで、戦わずして争いを平定し、両国を権力下に置くことに成功した。翌1774年にプンニャサーンはビルマと協同してシャムに派兵した為、シャムのタークシン王は疑心暗鬼に陥り、ヴィエンチャン王国を信用しない表面上だけの外交を行うようになった。1777年、ビルマの侵攻を阻止することに成功したシャムは、その足でヴィエンチャンへ侵攻・同都を占領し、ヴィエンチャン王国を属領とした。 シャムはエメラルド仏や捕らえた多数の貴族等を戦利品として1780年に撤兵したが、プンニャサーンはシャム侵攻時に逃亡したカムクートの地で1781年に死亡した。その為、タークシン王はヴィエンチャンの新しい王としてナンターセン・ポンマラオを擁立した。1782年にカサットストックがラーマ1世としてチャクリー王朝を樹立すると、ヴィエンチャン王国はシャムから大幅な自治権を認められるようになった。 しかし一方で、ヴィエンチャン王国は1787年よりシェンクワーンの領土を巡って西山朝(ベトナム)との対立が激化した。この対立はゲーアン(乂安)のカイサーンによってベトナム側に勝利がもたらされ、以後シェンクワーンはヴィエンチャン王国領でありながら、ベトナム王朝(西山朝、及び阮朝)の勢力下に置かれるという、半独立した非常に不安定な地域となった。 ナンターセン・ポンマラオの死後、王位は弟のインタウォンが継承し、1798年から1799年にかけてシャムが行なったビルマ残留軍掃討作戦へ参加した。この時司令官に任命された副王チャオ・アヌウォンを高く評価したシャムは、1803年にインタウォンが死亡するとチャオ・アヌウォンをセタティラート3世として王位に就かせた。セーターティラート3世の治世(1804 - 1829)でヴィエンチャン王国は黄金期を迎え、1807年の新王宮建立、1808年のタート・パノム橋の架設、及びシー・ブンファン寺院(ノーンカーイ)の建立、1824年のセーン寺院の建立など、各地で当時の土木技術の粋をこらした寺院やインフラの整備が行なわれた。 1827年、セタティラート3世は王室会議を開き、シャムのチャクリー王朝が国内外の情勢で混乱している状況を判断した上で、属国という立場からの独立作戦を提唱した。この作戦は副王らの反対にあったが、実施することで決議され、密かにバンコクへの派兵を進めた。しかし、これを察知したルアンパバーン王国や、作戦自体に不満を持っていた副王ティサらによる作戦の漏洩により、作戦は途中でシャムに感づかれる形となり、王都・ヴィエンチャンをシャムに占領される事で反乱は失敗に終わった。 反乱失敗後、セタティラート3世は逃亡を計ったが、1828年にシャム軍に逮捕され、獄中で死亡した。シャムはヴィエンチャン占領後、セタティラート3世派によるヴィエンチャン王国の再攻を懸念し、王都を徹底的に破壊した上で、ヴィエンチャン王国の主権をラーマ3世の物としてシャムの領土に編入した。これにより、事実上1828年にヴィエンチャン王国は滅亡し、以降はラーンサーン王朝の系譜を汲む王国であるルアンパバーン王国の力がラオスで大きくなる。
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概略史
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詳細は「ラオスの歴史」を参照 王朝の歴史は、統一ラーンサーン時代(1353年-1710年前後)と三国時代(1779年まで)に分けられる。
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