干支概略史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:26 UTC 版)
干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。甲骨文には、干名だけで日を表すこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える(これについては、「殷#殷王の一覧」も併せて参照のこと)。 春秋戦国時代に、自然や世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行思想が起こり、干支も五行と結びつけられるようになった。 古くは十干を「十日」、十二支を「十二辰」と呼んだ。『史記』律書では上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼んでいる。幹(干)と枝(支)に喩えて「干支」と呼ばれるようになったのは後漢代からである。 月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。 年を表すには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、漢代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。 1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦代にも見られるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。 方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。 ただし、全10巻中8巻が『四庫全書』にも収められている唐の時代に編纂された兵書である『神機制敵太白陰經』(李筌編)のうち、巻四「戰具」や巻九「遁甲」において、夜半、鶏鳴といった十二時による時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。
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