拡大したベリャーエフ・サークルの受容的態度とは? わかりやすく解説

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拡大したベリャーエフ・サークルの受容的態度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:11 UTC 版)

チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「拡大したベリャーエフ・サークルの受容的態度」の解説

グラズノフリャードフチャイコフスキー親交築き彼に魅了されていた。チャイコフスキー作品研究したグラズノフはその中に新しいもの(中略)我々若い音楽家指南与えるものをたくさん発見したとりわけ抒情的旋律的な作曲家であるチャイコフスキーが、オペラ要素交響曲持ち込んでいることは私にとって衝撃的であった。私は彼の発想広がり気質、そして構築完璧さほどには彼の作品の主題素材評価していなかった。」 タラスキンはこう記す。「チャイコフスキーグラズノフにとってどう重要性であったのかという感覚は、グラズノフチャイコフスキー滞在中に取り組んでいた楽曲である第2交響曲と(中略難産の末1890年完成され、彼がチャイコフスキーへと献呈した第3番比較することにより掴めるのではなかろうか。」タラスキンは第2交響曲を「正真正銘なる当代5人組様式全集」と呼びバラキレフボロディンリムスキー=コルサコフから採られた数多く様式上の影響指摘する第3交響曲では、グラズノフ愛国主義様式超えていくことを試み自分普遍的な形式雰囲気主題だと感じたものを反映させようとした。そしてその作品抒情的なエピソードにはチャイコフスキー影響明瞭に現れており、主題調性関係はチャイコフスキー交響曲第4番交響曲第5番を思わせ、管弦楽法は「暗い二重性」に満ちておりチャイコフスキー様式耳を傾けるような楽器法効果わずかに見られるベリャーエフ・サークルの中でチャイコフスキー音楽影響受けた作曲家グラズノフだけではない。リムスキー=コルサコフ回顧録の中で「チャイコフスキー崇拝折衷主義とへ向かう傾向」が当時ベリャーエフ一派作曲家多く強まってきており、それは「チャイコフスキーが『スペードの女王』と『イオランタ』で取り入れたウィッグとファージンゲールの時代イタリアフランス音楽中略)への偏向」と並び生じたことだった。リムスキー=コルサコフさえもその例外ではなかった。タラスキンはリムスキー=コルサコフ1895年作曲したオペラクリスマス・イヴ』の第7場は『スペードの女王』の第2幕下敷きとしており、「『ウィッグとファージンゲール』の音楽満ち満ちていると書いている。 公衆面前では愛想よくあり続けたが、リムスキー=コルサコフ個人的にチャイコフスキーとの関係対立的になってきていることを感じ取っていた。彼は自らの支持者の間でチャイコフスキー人気増してきていることに居心地悪さ感じており、己に勝るチャイコフスキー名声を妬む怒り気持ち目覚めていた。彼は友人モスクワ音楽批評家であったセミョン・クルグリコフに恐れ打ち明けている。書簡綴られているのは、もしチャイコフスキー検討中サンクトペテルブルクへ移住果たした暁には支持者一団が「すぐさま彼の周囲形成されリャードフグラズノフ間違いなく加わり2人の後に多くの者が続くことになります中略)我々の若い衆(我々の若い衆だけではありません - リャードフご覧ください)は折衷主義の海に溺れ個性奪われることになります。」ということだった。この折衷主義について、そしてその中のチャイコフスキー要素について、リムスキー=コルサコフ一見淡々とした調子回顧録に以下のように記している。「この時までにベリャーエフサークルでは新し要素増大と若い血が集まっていた。新し時代新し新しい歌である。」しかし彼は1890年にクルグリコフに告白している。「新し時代新し新し[ママ]、新しい歌 - 我々のがさほど新しくなく、彼らが歌う新しい歌が古いものに劣ることを除いて。」 こうした個人的な疑念ありつつもチャイコフスキーベリャーエフグラズノフリャードフとともに1893年5月リムスキー=コルサコフ命名日の祝い出席すると、リムスキー=コルサコフ彼に次のシーズンサンクトペテルブルク開かれるロシア音楽協会4つ演奏会指揮してもらえるよう個人的に依頼した。ややためらった後、チャイコフスキーはこれを受諾するチャイコフスキー雇用する条件として、ロシア音楽協会は彼が振ろう考えている作品の一覧要求した。彼が提出したリスト中にはリムスキー=コルサコフ交響曲第3番グラズノフ管弦楽のための幻想曲』などがあった。 これらの出演初回として、チャイコフスキー1893年10月28日ソリストにアデーレ・アウス・デア・オーヘを迎えて自作ピアノ協奏曲第1番交響曲第6番初演指揮している。彼が残る3回演奏会指揮台上がることはなかった。1893年11月6日この世去ったからである。この作曲家偲んでオール・チャイコフスキー・コンサートとなった1893年12月12日開催第2回企画では、リムスキー=コルサコフチャイコフスキー代役務めたプログラム交響曲第4番、『フランチェスカ・ダ・リミニ』、『スラヴ行進曲』、そしてフェリックス・ブルーメンフェルト演奏したピアノ独奏曲などで構成された。

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