拡大したベリャーエフ・サークルの受容的態度
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「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「拡大したベリャーエフ・サークルの受容的態度」の解説
グラズノフとリャードフはチャイコフスキーと親交を築き彼に魅了されていた。チャイコフスキーの作品を研究したグラズノフはその中に「新しいもの(中略)我々若い音楽家に指南を与えるものをたくさん発見した。とりわけ抒情的で旋律的な作曲家であるチャイコフスキーが、オペラの要素を交響曲に持ち込んでいることは私にとって衝撃的であった。私は彼の発想の広がり、気質、そして構築の完璧さほどには彼の作品の主題素材を評価していなかった。」 タラスキンはこう記す。「チャイコフスキーがグラズノフにとってどう重要性であったのかという感覚は、グラズノフがチャイコフスキーの滞在中に取り組んでいた楽曲である第2交響曲と(中略)難産の末1890年に完成され、彼がチャイコフスキーへと献呈した第3番を比較することにより掴めるのではなかろうか。」タラスキンは第2交響曲を「正真正銘なる当代の5人組様式全集」と呼び、バラキレフ、ボロディン、リムスキー=コルサコフから採られた数多くの様式上の影響を指摘する。第3交響曲では、グラズノフは愛国主義様式を超えていくことを試み、自分が普遍的な形式、雰囲気、主題だと感じたものを反映させようとした。そしてその作品の抒情的なエピソードにはチャイコフスキーの影響が明瞭に現れており、主題と調性関係はチャイコフスキーの交響曲第4番と交響曲第5番を思わせ、管弦楽法は「暗い二重性」に満ちておりチャイコフスキーの様式に耳を傾けるような楽器法の効果がわずかに見られる。 ベリャーエフ・サークルの中でチャイコフスキーの音楽に影響を受けた作曲家はグラズノフだけではない。リムスキー=コルサコフは回顧録の中で「チャイコフスキー崇拝と折衷主義とへ向かう傾向」が当時のベリャーエフ一派の作曲家の多くで強まってきており、それは「チャイコフスキーが『スペードの女王』と『イオランタ』で取り入れたウィッグとファージンゲールの時代のイタリア=フランス音楽(中略)への偏向」と並び生じたことだった。リムスキー=コルサコフさえもその例外ではなかった。タラスキンはリムスキー=コルサコフが1895年に作曲したオペラ『クリスマス・イヴ』の第7場は『スペードの女王』の第2幕を下敷きとしており、「『ウィッグとファージンゲール』の音楽が満ち満ちている」と書いている。 公衆の面前では愛想よくあり続けたが、リムスキー=コルサコフは個人的にチャイコフスキーとの関係が対立的になってきていることを感じ取っていた。彼は自らの支持者の間でチャイコフスキー人気が増してきていることに居心地の悪さを感じており、己に勝るチャイコフスキーの名声を妬む怒りの気持ちが目覚めていた。彼は友人でモスクワの音楽批評家であったセミョン・クルグリコフに恐れを打ち明けている。書簡に綴られているのは、もしチャイコフスキーが検討中のサンクトペテルブルクへの移住を果たした暁には、支持者の一団が「すぐさま彼の周囲に形成され、リャードフとグラズノフは間違いなく加わり、2人の後に多くの者が続くことになります(中略)我々の若い衆(我々の若い衆だけではありません - リャードフをご覧ください)は折衷主義の海に溺れ個性を奪われることになります。」ということだった。この折衷主義について、そしてその中のチャイコフスキーの要素について、リムスキー=コルサコフは一見淡々とした調子で回顧録に以下のように記している。「この時までにベリャーエフのサークルでは新しい要素の増大と若い血が集まっていた。新しい時代、新しい鳥、新しい歌である。」しかし彼は1890年にクルグリコフに告白している。「新しい時代、新しい鳥、新しい鳥[ママ]、新しい歌 - 我々の鳥がさほど新しくなく、彼らが歌う新しい歌が古いものに劣ることを除いて。」 こうした個人的な疑念がありつつも、チャイコフスキーがベリャーエフ、グラズノフ、リャードフとともに1893年5月のリムスキー=コルサコフの命名日の祝いに出席すると、リムスキー=コルサコフは彼に次のシーズンにサンクトペテルブルクで開かれるロシア音楽協会の4つの演奏会を指揮してもらえるよう個人的に依頼した。ややためらった後、チャイコフスキーはこれを受諾する。チャイコフスキーを雇用する条件として、ロシア音楽協会は彼が振ろうと考えている作品の一覧を要求した。彼が提出したリストの中にはリムスキー=コルサコフの交響曲第3番やグラズノフの管弦楽のための幻想曲『森』などがあった。 これらの出演の初回として、チャイコフスキーは1893年10月28日にソリストにアデーレ・アウス・デア・オーヘを迎えて自作のピアノ協奏曲第1番と交響曲第6番の初演を指揮している。彼が残る3回の演奏会で指揮台に上がることはなかった。1893年11月6日にこの世を去ったからである。この作曲家を偲んでオール・チャイコフスキー・コンサートとなった1893年12月12日開催の第2回企画では、リムスキー=コルサコフがチャイコフスキーの代役を務めた。プログラムは交響曲第4番、『フランチェスカ・ダ・リミニ』、『スラヴ行進曲』、そしてフェリックス・ブルーメンフェルトが演奏したピアノ独奏曲などで構成された。
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