拡充と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 01:43 UTC 版)
明治期には東京・神戸に続く官立高商として山口高商・長崎高商、小樽高商が設立された。1903年 (明治36年) に専門学校令が公布され、これ以降高商は専門学校令による専門学校となった。大正前期まではビジネスエリートを養成する商業専門教育はほぼ官立学校のみによって担われており、そのため地方の財界は、政府から莫大な設立費用を負担させられたにもかかわらず、競って官立高商を地元に誘致した。 第一次世界大戦以降の好景気を受け、高等教育機関の拡充政策が進められることになった。1918年(大正7年)原敬内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。その計画では大正8年から6年計画で、官立高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。その結果、1920年-1929年に東京高商は東京商科大学へ、続いて大阪高商・神戸高商は大阪商科大学および神戸商業大学へと、大学令による大学に昇格し、官立高商も1920年-1924年に国内で8校が新設された。この結果、1920年代末までに官公立の高商・商科大(商業大)は、北海道・東北地方・中国地方・四国地方で官立高商各1校、中部地方・九州地方で官立高商各2校、近畿地方では官立では高商2校・商大1校、公立では高商・商大各1校、関東地方では官立では高商・商大各1校、公立高商1校が出揃った。大倉高商や松山高商などの私立高商の新設も次第に進んだ。一方で帝国大学においても1919年に東京帝大・京都帝大で経済学部が法学部から独立する形で設置された。 この時期にはまた、アジアを初めとする海外市場への進出が拡大されたことを背景に、貿易・移民業務など海外活動の実務家に対する社会的需要も高まった。1929年には山口・長崎・横浜の3高商において中国・南洋・南米貿易従事者養成のための特別課程「貿易別科」が設置された。山口を始めとするいくつかの高商は、中国大陸などへの修学旅行を制度化していた。また各地の商品を学外にも広く公開する陳列室を設けたり、移植民問題についての展覧会を開催した高商もあり、地域社会に対し貿易・移民など海外活動の意義を啓蒙する役割を担った。これらを基礎として各高商・商大では調査課・調査部などの設置が進み、各校における研究活動の拠点となっていった。 日本の支配下にあったアジア地域でも台北高商・台南高商(1929年台北高商へ移管)・京城高商(1922年官立移管)・大連高商(1941年官立移管)が設立された。(旧外地の高等教育機関も参照) 各官立高商は複数の外国人教師を抱え、英・仏・独語はもちろん、中国語やロシア語・スペイン語・ポルトガル語・マレー語など、旧制高等学校・帝国大学では必ずしも重視されなかったマイナーな外国語の科目も設けられるなど、貿易実務家のための語学教育が重視された。
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