ソビエト軍によるキエフ侵攻
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「ソビエト・ウクライナ戦争」の記事における「ソビエト軍によるキエフ侵攻」の解説
臨時政府降伏後、ラーダが権力を掌握し、1917年11月22日、ウクライナ人民共和国が成立したが、これに反発したボリシェヴィキは12月11日に「第一回ウクライナ・ソビエト大会」を開催して人民書記局を選出し、赤軍が占拠したハリコフにソビエト政府を樹立する動きをみせた。ハリコフでのソヴィエト会議は、そのほとんどがロシア人だった。 アントノフ・オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)率いる3万の革命遠征軍が12月上旬、ウクライナに侵攻した。 1917年12月16-18日のキエフのソヴィエト会議での選挙でもウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)は11%しか獲得できず、事実上否認された。 12月25日、ボリシェビキの傀儡政権であるウクライナソビエト共和国がハリコフで樹立を宣言した。 1918年 1月、革命遠征軍がキエフに総攻撃を開始した。 1月9日、中央ラーダは第四次宣言で独立を宣言した。キエフのラーダ軍は約18000人の兵力であった。 1月23日、ソビエト軍はキエフのドニエプル左岸に到達し、1月24-25日にキエフへ攻撃した。 1月26-27日にキエフのラーダ軍はキエフを脱し、西へ向かった。ラーダ・ウクライナ人民共和国はドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を1月27日(新暦2月9日)にブレストで締結した。このブレスト講和はウクライナ人民共和国を国際的にはじめて承認したものだった。 1月28日、キエフにソビエト政権(ウクライナ・ソビエト政府人民書記局)が樹立した。ラーダ軍が戻ってくるまでの二週間、ムラヴィヨフのソビエト軍は少なくみつもっても2000人のウクライナ市民を無差別に逮捕し処刑した。 2月12日、ハリコフのモスクワ傀儡政権が、赤軍とともにキエフに侵入した。。この際、ボリシェビキは10人1組の「食料派遣隊」を伴っており、これはレーニンの穀物を送れという命令に基づいて農村の穀物を没収する部隊だった。1918年2月18日から3月9日までにヘルソン州だけで1090車両の穀物がロシアに発送された。ドイツ軍、オーストリア軍が迫ると、ボリシェビキは退却し、4月にウクライナソビエト政府は解散した。 2月16日にラーダ軍はキエフに50万のドイツ軍とともに入城した。 2月26日にオーストリア軍25万がキエフに入った。 3月3日にはドイツ・オーストリアの中央同盟国とロシア共和国およびウクライナのボリシェヴィキ政府との間でブレスト=リトフスク条約が締結された。
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