後の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/15 16:18 UTC 版)
チョウンシーとディアボーンはその後、ナイアガラ半島で起きたジョージ砦の戦いに勝利したが、サケッツ港の防衛は主に民兵からなる少数の部隊に任せたままだった。ジェイムズ・ルーカス・ヨー代将が指揮するイギリス海軍増援隊がキングストンに到着したとき、ヨーは即座にジョージ・プレボストが指揮する陸軍を乗船させ、サケッツ港を攻撃した。第二次サケッツ港の戦いでイギリス軍は撃退されたが、チョウンシーは即座に戦隊をサケッツ港に籠もらせ、それは新しいスループ・オブ・ウォーが完成した7月半ばまで続いた。 チョウンシーは7月21日に再度出撃した。その6日後にはナイアガラ川でウィンフィールド・スコット大佐の指揮する1個大隊を上陸させた。この部隊は当初オンタリオ湖の西端にあるバーリントンハイツにあったイギリス軍陣地を攻撃するつもりだったが、その守備隊が強力であり、また如何なる上陸に対しても塹壕で十分に備えていることが分かった。この部隊はイギリス軍陣地を攻撃する代わりに再度ヨークを攻撃することに決め、7月31日に町の東に上陸した。抵抗は無かった。ヨークに駐屯していたイギリス軍正規部隊はバーリントンハイツに急行していた。 アメリカ軍は兵舎を1棟焼き、平底船5隻、大砲5門、および幾らかの小麦粉を捕獲した。チョウンシーは前のヨークの戦いで略奪していた幾らかの個人資産や公共図書館の本を返却した。 1968年、オンタリオ歴史資産基金がレイクショア・ブールバード沿いのコロネーション公園展示広場入口に歴史標識を建てた。その標識には次のように書かれている。 1813年7月31日朝、アメリカ合衆国侵略艦隊が、バーリントンハイツのイギリス軍陣地への攻撃作戦を諦めた後で、ヨーク(トロント)沖に現れた。その日の午後、アメリカ兵300名がここに近い岸に上陸した。その上陸には抵抗が無かった。町にはイギリス軍正規兵が居らず、ヨークの民兵は3か月前のアメリカ軍侵略中に、その自由と引き替えに戦闘に加わらないことにしていた。侵略隊は食料や軍需物資を捕獲して船に戻った。翌日、彼等が戻ってきて貴重な物資がドン川の上流に隠されているという協力者の報告に従って調査した。その調査がうまく行かず、アメリカ兵は出発前に近くにあるジブラルターポイントの軍事施設を焼くことで満足した .。
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