空襲の経過
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8月1日の20時20分に警戒警報、20時55分に空襲警報が発令されたもののB-29はいっこうに現れず、また午後10時ごろから川崎などが爆撃されているとの情報などが23時頃に入り、市民は八王子に空襲はないと勝手に警戒を解いていた。8月2日の午前0時ごろ、米軍機は伊豆半島から丹沢山を経て八王子に侵入した。その後B-29爆撃機169機が来襲した。 先行する爆撃機が0時45分から目標を照らすためM47焼夷弾を投下し、0時48分に主力部隊がM17集束焼夷弾を投下した。2時間にわたって爆撃され市街域の3.6 km2のうち2.9 km2が焼失した。2時間で1600トンの焼夷弾が投下され日本本土空襲では3番目の投下量となった。また市民一人当たりの投下量は10個となった。 空襲が予告されたため都内中から消防隊が結集されたが故障車や空襲中に到着した消防車が多かった。市街中心部に水利が少なく消防の能力を超えた火災であった。また応援に駆けつけた消防隊員は地理に暗かったこともあり7名の殉職者を出す結果となった。
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空襲の経過
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太平洋戦争中の日本本土空襲のうち、初期のものは航空母艦や中国内陸部の基地から発進した爆撃機によるものであり、航続距離の制限から爆撃できる範囲は限られ、攻撃対象も限定的で軍需工場が主な目標とされていた。しかし1944年(昭和19年)6月、アメリカ軍がマリアナ諸島を制圧した事で北海道を除く日本本土の大部分が爆撃機B-29の航続距離内となり、また、無差別爆撃を主張していた陸軍少将のカーチス・ルメイが1945年(昭和20年)1月にグアム島第21爆撃集団司令官に着任してからは、日本各地の都市に対して無差別爆撃が行われるようになった。 1945年(昭和20年)5月、仙台の偵察飛行が行われ、街の様子が上空から撮影された。アメリカ軍は仙台を、工業面での重要性はないが、住宅が密集し延焼を防ぐ広い道路や広場がほとんどないといった点から焼夷弾攻撃に適した都市であり、爆撃による心理的効果も期待できると評価していた。アメリカ軍は大規模空襲に先立ち「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラを空から撒き、空襲を予告していたという。 同年7月9日、アメリカ陸軍航空軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、日本時間の16時3分、131機のB-29がテニアン西飛行場を出撃した。不具合で引き返した機を除く123機が仙台上空に到達した。 一方、仙台市では同日21時30分に空襲警報が発令されていたが、22時22分に解除された。22時56分に再び警報が発令されたが、まもなく解除された。仙台市への空襲はこの後、7月10日になって始まった。空襲開始時刻は0時3分頃で、0時5分にみたび空襲警報が発令された。 爆撃飛行団は高度約10,000フィート(約3,000メートル)より、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲した。焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化した。アメリカ軍は焼夷弾の投下目標となる中心点を事前に撮影した空中写真上に定めていて、この座標は新伝馬町と東三番丁の交点に相当した。日本側の記録でも新伝馬町や東二番丁、大町が最初に集中攻撃を受けたとある。 7月中に仙台市役所の防衛課がまとめた調査報告によると、被災戸数は1万1933戸、被災人口は5万7321人、死者は987人、重傷者は260人、軽症者は1423人、行方不明者は50人だった。仙台空襲の体験談や犠牲者について、戦後に仙台市民が『仙台空襲』(1973年)と『仙台はフェニックス』(1995年)という2冊の本を編纂した。『仙台はフェニックス』は『仙台空襲』に掲載された犠牲者名簿を精査、再検討を加え、空襲による犠牲者は1064人、犠牲になったと推測される身元不明者や行方不明者など335人がいたと記している。ただし、この犠牲者数には7月10日以後に行われた銃爆撃による犠牲者数名も含まれている。 市街地が焼け野原と化したため、「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られている。また市街地の他に仙台城も被災し大手門と脇櫓が焼失、二の丸にあった第二師団も被害を受けた。また伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿も焼失した。大手門と脇櫓、瑞鳳殿は国宝であり、仙台市の国宝は大崎八幡宮だけが残った。一方で、苦竹にあった東京第一陸軍造兵廠仙台製造所(現在の陸上自衛隊・仙台駐屯地)は空襲を受けなかった。 アメリカ軍の損失は、テニアン西飛行場で離陸に失敗して炎上した1機(全乗員脱出)のみであった。しかし、東北軍管区司令部は「撃墜5 撃破12」という虚偽の戦果を発表した。 アメリカ軍による地方都市空襲は、複数の都市に対して同時に行われるのが通例であり、この夜は仙台と共に和歌山空襲、堺空襲、岐阜空襲、四日市空襲が行われた。
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