京都帝國大学時代と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:54 UTC 版)
「村岡範為馳」の記事における「京都帝國大学時代と晩年」の解説
1897年(明治30年)に京都帝國大学が新設されるとその教授となり、理学部物理学教室の礎を築いた。1901年(明治34年)にレントゲンがノーベル物理学賞を受賞した際には現地に渡り、祝賀会に出席した。また1902年(明治35年)に設立された京都音楽会の顧問を務めている。 1913年(大正2年)に総長の澤柳政太郎に文学部・医学部・工学部など他の6人の教授とともに辞表の提出を迫られ、辞職して同年9月27日に京都帝國大学名誉教授となった。澤柳の行動の背景には当時の文部大臣・奥田義人の意向があったとされるが、教授会を無視していたためその反発を招き、総長を免官されている。この後、任免権は実質的に教授会に移行した(澤柳事件)。 辞職後は兵庫県出石郡に住んだ後、三重県津市で妻や孫と共に余生を送った。1929年(昭和4年)4月19日、77歳で老衰のため亡くなった。生前の業績を称え、昭和天皇から白練絹一疋が贈られている。
※この「京都帝國大学時代と晩年」の解説は、「村岡範為馳」の解説の一部です。
「京都帝國大学時代と晩年」を含む「村岡範為馳」の記事については、「村岡範為馳」の概要を参照ください。
- 京都帝國大学時代と晩年のページへのリンク