兵庫県立神戸高等学校
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兵庫県立神戸高等学校(ひょうごけんりつこうべこうとうがっこう、英: Hyogo Prefectural Kobe High School)は、兵庫県神戸市灘区城の下通一丁目にある県立高等学校。
- ^ 村上春樹『村上朝日堂 はいほー!』文化出版局、1989年、50-52頁。ISBN 4-579-30309-1。
- ^ 『世界から見た灘高型受験教育』(一本松幹雄。教育開発研究所。平成10年1月20日初版発行)p.69, 70に「このような状況下にあって、多くの神戸一中生たちが男子校を続ける灘高に移ってきた。灘は私立で学区制の適用外であったので、どこからでも通学できるからだった。神戸一中から灘に転校した生徒たちは実に多く、二十名以上だったと思う。」「そして、それまで、小学校で「一番」とされたよい意味で目立つ生徒たちは神戸一中に進学していたが、これを契機に灘中に進学するようになったのだ。この点で、校風には相当に大きな相違があるものの、灘は神戸一中の後継校という意味もあり、世間でも兵庫県下随一の秀才校が一中から灘に変わったと見なす向きが多かった。」と記載されている。
- ^ 姫路中学校に次ぎ、豊岡中学校と並んで2番目の開校。
- ^ 読みは「じんちゅう」で、校歌の歌詞にも織り込まれている。
- ^ “第64回全日本合唱コンクール全国大会”. 全日本合唱連盟 (jcanet.or.jp). 2023年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月5日閲覧。
- ^ “出場100回の皆勤15校「誇り」 高校野球の地方大会”. 朝日新聞デジタル (asahi.com). 朝日新聞社 (2018年7月11日). 2023年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月5日閲覧。
- ^ 定期戦秘話
- ^ 神戸一中・神戸高校との定期戦 兵庫高校野球部 公式ホームページ
- ^ 橘佳江『旧制神戸一中卒業生の進路選択に関する一考察 : 上級学校進学者の進路規定要因について(地域と教育の歴史)』日本教育社会学会大会発表要旨集録〈論文〉、2005年 。
神戸一中
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1936年(昭和11年)、弘二は兵庫県立 第一神戸中学校(現 兵庫県立神戸高校)に入学する。その直前の1月、生母 小酉が結核で死去(弘二12歳)。1年3ヵ月後、父は継母 ふみと再婚する。さらに昭和14年には、姉 晴子も結核で死去している。 小学校・中学校の同級生だった加藤 進は、42回生卒業45周年記念誌『おおとり』に弘二の思い出を寄せている。 慈母や姉上が病死され貞朗氏が再婚されたことは、多感な村野君に複雑な陰翳をもたらしたのではあるまいか。彼は余り勉強をしなくなったが、詩や美術へ殊に音楽への傾斜が目立ってきたのである。 中学三年生のころから作曲に熱中し始める。貞朗の手記は以下のようにいう。 毎夜おそくまで二階の自分の部屋で何か作曲して、一部出来上がると夜の夜中でも勇ましく階段を下りてきて、応接室に入ってピアノで演じて見るというあり様で、中学の学芸会には何か自分の曲を演奏していたようである。 この頃、自作の楽譜や練習用の写譜、教本などには、すべて通し番号をつけて整理していた。また、署名には「Koji Felix Murano」を用いている。 1940年(昭和15年)、日中戦争が長期化する時節にあって、国を挙げて紀元2600年の祝賀が行われた。最高学年(5年生)となった弘二も、ピアノ独奏曲『紀元二千六百年奉祝曲「大聖代」』を作曲(11月10日)、同校の学芸誌『晩鐘』に楽譜が掲載された。本人は同誌に以下のような文章を寄せている。 これはかねてより私の念願の一つであった雅楽調によるピアノ小品創作の実現ででもありました。「古典への回帰。」「国民楽派の樹立。」等が盛んに叫ばれている今日この頃、きわめて意義あることと、私自ら、感激を深くしたのであります。 また、12月3日には、校内学芸大会において、『故 西園寺公望公之御霊前に呈げまつる Funeral March』を発表した。楽譜に「昭和十五年十二月三日、神戸一中 秋季校内学藝大会に於いて発表せり。因みに翌々日五日は、公の国葬当日であった。」と本人が記載している。この当時の学内での演奏について、同級生 伊藤 淳二は、その著書『天命』の中で「忘れ得ぬ人々――天才的な三人の友」として、以下のように書いている。 昭和十五年、神戸一中恒例の弁論大会で、学芸部長であった私の処に、異色の二人が出場を申し出てきた。一人は村野弘二君、一人は平林直樹君である。村野君はピアノの独奏、平林君は何やらむずかしい演題の弁論で会った。当時、弁論大会で音楽の部の出演者は、多くの場合ピアノ演奏であり、曲目はこれまた多くの場合、ショパンかベートーベンであった。ところが村野君は、自分の作曲したものを演奏するという。しかも、彼は独自の音楽理論をもっていて「これからは不協和音の時代、つまりドビツシィー、ジャズの時代がくる」といい、三曲程、不協和音で一貫した自作の曲を演奏した。 ベートーベンやショパンを聞きなれた生徒たちは、一瞬ぽかんとした。演奏した後も拍手はためらいがちなものであった。弁論大会終了後の講評で、音楽担当の金健次先生が、「私は何と講評していいか分からん。とも角、自分の作品を堂々と演奏したことに感服した」と何だか意味のとりがたい講評をした。村野君が「誰も、何も分かってへん」と憮然とした顔で、その後、私に語ったのを忘れられぬ。 音楽ばかりに熱中して進路を一向に決めない弘二を心配した父 貞朗は、音楽家としての才能があるかどうか専門家に判断してもらうことに決める。亡き長女 晴子の通った甲南女学校の音楽教師であり、作曲法の著作もある池尻景順が隣町の住吉に住んでおり、そのもとを弘二を連れて訪れた。自作の楽譜を見、ピアノ演奏を聞いた池尻は、「作曲のメロディーには一風面白いところがあって、有望だと思います」と評した。それから一年間、弘二は池尻宅に週2回通い、ピアノと作曲の指導を受けた。 なお、貞朗の手記ではこの年は東京音楽学校を受験していないことになっているが、音楽学校には受験の記録がある。伊藤淳二も、学科はパスしたが独学のピアノ実技で落ちた旨を『天命』に書いている。
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