ミハイル・アルツィバーシェフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > ミハイル・アルツィバーシェフの意味・解説 

アルツィバーシェフ【Mikhail Petrovich Artsïbashev】

読み方:あるつぃばーしぇふ

[1878〜1927]ロシア小説家帝政末期近代主義潮流の中で、虚無的で、性におぼれた人間描いた十月革命後ポーランド亡命。作「サーニン」「最後一線」。


ミハイル・アルツィバーシェフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 21:23 UTC 版)

ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフ
誕生 1878年11月5日/ユリウス暦10月24日
ロシア帝国ハリコフ州アフティルスキー郡ドブロスラヴォフカロシア語版
死没 (1927-03-03) 1927年3月3日(48歳没)
ポーランドワルシャワ
職業 小説家劇作家脚本家
言語 ロシア語
活動期間 1894年 - 1927年
文学活動 近代主義
代表作 『ランデの死』(1904年)
『サーニン』(1907年)
『最後の一線』(1911年)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフロシア語: Михаил Петрович Арцыбашев;英語: Mikhail Petrovich Artsybashev1878年11月5日/ユリウス暦10月24日 - 1927年3月3日)は、19世紀後半から20世紀前半のロシア文壇を代表する作家である。

経歴

ワルシャワの正教会墓地にあるアルツィバシェフの墓

1878年、ハリコフ州オフティルスキー郡ドブロスラヴォフカ(現ウクライナスームィ州ドブロスラヴォフカ)生まれ。父は土地の小地主で官員を務めたことのある人物であった。母はポーランド人で、結核によりミハイルが3歳の時に死去している。オフティルカの学校で16歳まで教育を受け、1895~1897年までは官員を務めた。その後1897~1898年にはハリコフ美術学校で学ぶ。1898年にはアンナ・コブシュコと結婚する(息子のボリスが生まれるが、1900年には離婚した)。

1898年にサンクトペテルブルクへ移り、フリーランスのジャーナリストとして活動するようになる。

家族・親族

執筆作品・作風

近代主義小説の代表的作品で、性欲賛美をした『サーニン』やその続編となる、自殺賛美をした『最後の一線』が有名である。特に『サーニン』は当時の若い世代を中心に一世風靡し、「サーニズム」という言葉まで生んだ。他に『ランデの死』、『人間の波』などの作品がある。

日本での評価・影響

  • 筒井康隆が少年時代の愛読書のひとつに挙げている。
  • 黒澤明はその自伝で、兄の丙午が『最後の一線』を「世界最高の文学だ」と推奨して何時も手元に置き、27歳で自殺した、と書いている。

おもな作品

  • 『ランデの死』 «Смерть Ланде» : 1904年
  • 『人間の波』 «Человеческая волна » : 1905年
  • 『サーニン』 «Санин»  : 1907年
  • 『最後の一線』 «У последней черты» : 1910年-1912年

外部リンク

脚注




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミハイル・アルツィバーシェフ」の関連用語

ミハイル・アルツィバーシェフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミハイル・アルツィバーシェフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミハイル・アルツィバーシェフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS