東海道「七里の渡し」と迂回路「佐屋路」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 15:14 UTC 版)
「佐屋街道」の記事における「東海道「七里の渡し」と迂回路「佐屋路」」の解説
「東海道」および「七里の渡し」も参照 関ケ原の合戦の翌年慶長6年(1601年)、東海道に伝馬宿駅制が実施された。東海道の熱田(宮)宿と桑名宿の間は、海路「七里の渡し」とされた。「七里の渡し」は、元和2年(1616年)にて始まったという。航路は、満潮時、陸地沿い航路が約7里(27 km)、干潮時、沖廻り航路が約10里(39 km)となる海路であった。 佐屋路は渡海を避け、陸路で熱田から岩塚・万場・神守を経て、佐屋湊から川船で桑名へと至る経路で、距離が陸路6里、水路3里、計9里となる。東海道付属の迂回路であった。書付によると、江戸時代佐屋路と呼ばれていたが、「佐屋路旅行之義二付御尋之趣申上候書付」によると、佐屋路の他、「東海道佐屋廻り」と呼称されていたことが確認できる。 参勤交代之節東海道佐屋廻り伊勢路通行仕候義病気又者風雨に而渡海難相成節相廻り其段旅中よりお届申上候儀二候哉夫とも及申間敷候哉之旨相伺候書付御渡被成佐屋路之儀者宿々も有之儀ニ付勝手ニ旅行いたし御届等申上候ニも及間敷筋ニ者無之哉之段御尋に御座候 — 「佐屋路旅行之儀ニ付御尋之趣申上候書付」、『日本交通史料集成. 第3輯(五駅便覧)』(1938)、115頁。所収。 東海道の宮(熱田)宿と桑名宿との間は、伊勢湾を海路で行く七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もあった。また、船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、佐屋路は七里の渡しの迂回路として盛んに利用された。そのため「姫街道」とも呼ばれたという。
※この「東海道「七里の渡し」と迂回路「佐屋路」」の解説は、「佐屋街道」の解説の一部です。
「東海道「七里の渡し」と迂回路「佐屋路」」を含む「佐屋街道」の記事については、「佐屋街道」の概要を参照ください。
- 東海道「七里の渡し」と迂回路「佐屋路」のページへのリンク