東海道の縦深防御の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:38 UTC 版)
畿内vs南関東 このような畿内の認識に対して、関東一帯は馬の産地として、機動性に優れた軍事力を持つ武士団が台頭し、将来の独自政権の地盤が作られて行った。平安時代後半に、下級貴族として地方に土着化した軍事貴族の平氏と源氏が、日本各地で棟梁となって権力争いをするようになると、蛭ヶ小島(伊豆国)に配流されていた源頼朝を頂いて、南関東は軍事的に一体化する。当時の南関東は北条氏や千葉一族、三浦一族など坂東平氏の地盤であったが、北関東の足利氏、小山氏、結城氏、八田氏、宇都宮氏、後に新田氏や佐竹氏らの勢力も背後に従えると、南関東・鎌倉の地に武士政権を打ち立てた。 朝廷と鎌倉幕府という二つの政権が並立すると、東海道の自然障壁である由比 - 富士山 - 箱根峠 - 伊豆半島を第一の防衛線として、鎌倉幕府(本拠地:鎌倉)、戦国時代には後北条氏(本拠地:小田原)の地盤となった。天正時代には、徳川家康が岡崎や浜松や駿府(明治以後の静岡)などを本拠地にして海道(東海地方)の覇者として君臨し、やがて箱根峠以東に位置する江戸に本拠地を移し、1603年3月24日に徳川幕府を樹立した。 いずれの政府も、畿内に対して東海道の箱根峠と由比を大きな楯とした縦深防御を敷き、南関東は一体化して発展した。
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