遊女遊び
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 17:32 UTC 版)
政岑は将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけった。寛保元年(1741年)春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれている。これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買った。 吉宗は政岑に対し寛保元年(1741年)10月に出府を命じ、老中松平乗邑により政岑の乱行の調査が行われた。吉宗自身は改易の考えさえあったようであるが、重臣の尾崎富右衛門による懸命な弁明により、10月13日に政岑は吉宗より強制隠居の上で蟄居を命じられ、家督は嫡男の政純が継ぐことを許されたものの、越後高田に懲罰的な転封を命じられた。
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