江戸後期から明治
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江戸時代も終わりに向かう頃には、和算はますます高度化し、新たな展開を見せ、担い手も拡大した。安島直円の門下から、教育に優れた日下誠が出ると、その門からもとても多くの秀才が輩出された。 和田寧は、安島の積分思想を円にとどまらず、角形や立体など様々な図形へと多岐におよばせて、豁術(積分法)を創出し、また、この術のための便利として円理表(積分の公式集)を作成した。ここにおいて和田は円理に第三の革命をもたらした。極数術(極大極小論)の研究では、関孝和の創出以来、あかされていなかった適尽法の理論を解き明かして、従来の方法を簡便にしさらにその応用もより複雑で幅広いものへと拡げたのであった(これは今でいえば微分法による導関数の導出に等しい)。また、新奇な問題として、円や角などの図形が他の図形の上でころがったときの軌跡について論じはじめ、これを皮切りに以後この問題は盛んに行なわれた。和田の名はたちまち算家たちの間に広まり、既に数学で名を挙げているはずの有力者たちが、その業を授かるために入門しにくるほどであった。 同じく日下誠の門下の内田五観は十一のころすでにその才能をあらわし、わずか十八にして関流の宗統を継いだ秀才であった。洋学を高野長英に学び、天文や測量、地理にも優れて瑪得瑪弟加塾(マテマテカ塾)という塾を開いて教え多くの門下生を抱えた。天文関係では明治期に大学出仕天文暦道御用係や星学局御用係として、太陽暦への改暦事業にも務めた。その名は各地に轟き、当時の算家たちに影響およぼすことが多かった。長谷川寛もまた日下誠の門弟であったが、長谷川派として独立の一派を築き(一説には、わけあって関流から破門されたとも言う)、殊に教育の方面によく従事した。その著『算法新書』は、そろばんの初歩から天元、点竄、綴術、さらには和田の円理までをも惜しみなく載せて当時の算法を網羅し丁寧に解義した入門書であった。その他様々な算術の入門書を著して子弟を導き、その二代目長谷川弘においても図形の公式集や豁術の解義書などさまざまに数学の教育活動が行なわれた。 また、長谷川寛は新たに極形術と変形術というものを発明している。極形術は、扱いづらい数や図形を扱いやすいもの(極形という。たとえば長方形や菱形なら正方形に、三角形なら正三角形や直角二等辺三角形に、大きさが等しくないものは等しいものに)に置き換えて、問題を解きやすくするという術であり、変形術は図形の形を引き伸ばしたり回したりすることで形を変えて問題を解きやすくする術である。これらによって、図形問題の解法は大いに簡略化されるかに見えたが、極形術にてはある問題においては正しく解けずに誤った答えが導かれると言う事態が起こった。いくらかこれに他の数学者たちから批判の声があがったものの、ついに修正改良されることを得なかった。他方、内田五観の門人法道寺善もまた形を変えて解くという同様の考えにより、接円の問題などにおいて円を直線に変えて解く、別の方法を編み出している(反転法に相当する)。 関の時代においては数学の担い手は、特に都市部の、幕臣や侍など身分の高い者が殆どであったが、江戸後期になると諸地方から、商家や農家などからも数学に達した者が多くあらわれて、低い身分や遠い地方の人でも高度な数学をたしなむ者が増えた。萩原信芳や剣持章行などがそれである。この要因のひとつとして、遊歴算家がある。日本の各地を歩きまわり、行く先々で数学の教授を行った数学者であり、主に山口和や剣持章行がいる。また通信教育もよく行われていて、これらは地方に数学をひろめることに大きな功があった。
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