江戸庶民・武士の間での妖刀伝説の流布とは? わかりやすく解説

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江戸庶民・武士の間での妖刀伝説の流布(1750〜1837年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)

村正」の記事における「江戸庶民・武士の間での妖刀伝説の流布(17501837年)」の解説

1700年代後半『三河後風土記』完成から100年ほども経つと、写本流通内容のまた聞き妖刀伝説がかなり広まった思われ明和4年1767年)の川柳に「村正やみうちにする道具なり」(『川柳万句合勝句刷』)と歌われるなど、江戸庶民中級下級武士の間では周知の事実となり、内容過激化していく。 まず、『慶安太平記』は、慶安4年1651年)に幕府転覆計画処刑され由井正雪主人公とする実録小説で、明和8年1771年)に禁書指定されているが、その中で正雪愛刀村正とされている。 天明6年1786年)頃に書かれ根岸鎮衛『耳嚢』第2巻では、村正徳川家不吉な刀なのはよく知られているとし、知人からのまた聞き『三河後風土記』織田有楽斎伝説を記す一方で村正の刀は、徳川家の者だけにではなく広く一般に禍々しいものだという噂があったことを記している。村正正宗の元弟子村正もその刀も狂気支配されており、村正末裔不運続き廃業村正の銘を改竄した商人の妻が村正自殺、などという噂があったという。しかも鎮衛自身が噂の信奉者で、当時まだ流通していた村正見て、これは見事な刀だが悪い話があるから買うのをやめよう召使い指示したりしている。当時村正銘の改竄があったのは事実で、現物現存している。 また、江戸時代初期までは家康の父は襲撃死亡まではせず数年後病死しているはずだったのに、1645年から1798年までに書かれ『岡崎領主古記』では、襲撃暗殺されたことになってしまう(村正かどうか不明)。 文政6年1823年)、江戸城松平外記発狂同僚3人を脇差殺した事件千代田の刃傷)も、使われたのは村正だったという噂が世間ではもちきりだったという。 一方で大名などの立場ある武士はやや冷静な眼で見ており、平戸藩松浦静山外記の刀について、村正と関派の両論併記立場取っている(『甲子夜話』)。1825年ごろ、三田藩主九鬼隆国が静山にした雑談でも、福島正則転封1619年)のとき三田藩移ってきた者たちは正則から賜ったという村正を今も相伝している、そんな家が4〜5家もあってどうしてだろうか、と話すが、不思議がるだけで批難などはしていない

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