江戸庶民・武士の間での妖刀伝説の流布(1750〜1837年)
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「村正」の記事における「江戸庶民・武士の間での妖刀伝説の流布(1750〜1837年)」の解説
1700年代後半、『三河後風土記』の完成から100年ほども経つと、写本の流通や内容のまた聞きで妖刀伝説がかなり広まったと思われ、明和4年(1767年)の川柳に「村正はやみうちにする道具なり」(『川柳評万句合勝句刷』)と歌われるなど、江戸の庶民や中級〜下級武士の間では周知の事実となり、内容も過激化していく。 まず、『慶安太平記』は、慶安4年(1651年)に幕府転覆計画で処刑された由井正雪を主人公とする実録小説で、明和8年(1771年)に禁書指定されているが、その中で正雪の愛刀は村正とされている。 天明6年(1786年)頃に書かれた根岸鎮衛の『耳嚢』第2巻では、村正が徳川家に不吉な刀なのはよく知られているとし、知人からのまた聞きで『三河後風土記』の織田有楽斎の伝説を記す一方で、村正の刀は、徳川家の者だけにではなく、広く一般に禍々しいものだという噂があったことを記している。村正は正宗の元弟子、村正もその刀も狂気に支配されており、村正の末裔も不運続きで廃業、村正の銘を改竄した商人の妻が村正で自殺、などという噂があったという。しかも鎮衛自身が噂の信奉者で、当時まだ流通していた村正を見て、これは見事な刀だが悪い話があるから買うのをやめようと召使いに指示したりしている。当時、村正の銘の改竄があったのは事実で、現物が現存している。 また、江戸時代初期までは家康の父は襲撃で死亡まではせず数年後に病死しているはずだったのに、1645年から1798年までに書かれた『岡崎領主古記』では、襲撃で暗殺されたことになってしまう(村正かどうかは不明)。 文政6年(1823年)、江戸城で松平外記が発狂、同僚3人を脇差で殺した事件(千代田の刃傷)も、使われたのは村正だったという噂が世間ではもちきりだったという。 一方で、大名などの立場ある武士はやや冷静な眼で見ており、平戸藩主松浦静山は外記の刀について、村正と関派の両論併記の立場を取っている(『甲子夜話』)。1825年ごろ、三田藩主九鬼隆国が静山にした雑談でも、福島正則転封(1619年)のとき三田藩に移ってきた者たちは正則から賜ったという村正を今も相伝している、そんな家が4〜5家もあってどうしてだろうか、と話すが、不思議がるだけで批難などはしていない。
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