常陸土岐氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 05:04 UTC 版)
土岐光定の六男土岐定親の子、師親が美濃国恵那郡遠山荘の原郷に居住し原氏を称したことから「土岐原氏(とき・はらし)」とも呼ばれている。南北朝期に原秀成が山内上杉家の惣政所職となり、常陸国に下って信太荘の管理を行った。後に東条荘、伊南荘に領域を広げ江戸崎土岐氏、竜ヶ崎土岐氏の二氏に分かれ栄えた。後に江戸崎土岐氏がこれを統一し、宗家より当主として土岐治頼を迎えた。周辺の同じ様な小勢力と抗争を繰り返し、勢力を拡大してきた後北条氏に服属した。同じ頃、江戸崎城の土岐治綱と竜ヶ崎城の土岐胤倫との兄弟の不和対立が顕在化していたが、豊臣秀吉による小田原征伐において北条氏が滅びると共に両者とも勢力を失った。竜ヶ崎城主であった胤倫は子の頼房や重臣と共に城を脱出して諸国を流浪し、慶長4年(1599年)に胤倫は没したといわれている。頼房はその後徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ、名字を母方の「豊島」に改めた。徳川頼宣に配され紀州徳川家の家臣となり、大坂の陣にて活躍した。後に土岐朝治の代に、紀州徳川家から江戸幕府将軍となった徳川吉宗に幕臣として召し出され、土岐氏に復姓し幕府旗本となる。 傍流には、甲斐国武田氏に仕え陣馬奉行として活躍した原昌俊・昌胤父子や、織田信長や豊臣秀吉に仕えた原長頼などがいる。 土岐朝旨 - 徳川家慶、家斉に仕え、御側御用取次を勤めた。6百石から加増を重ねて7千石となる。 土岐頼旨 - 土岐朝旨の子として生まれ、沼田藩土岐氏の分家の旗本家に婿養子に入る。官位は丹波守、禄高7千石。書院番頭、勘定奉行、下田奉行、浦賀奉行、大目付、大番頭を経て、嘉永5年(1852年)に旗本最高職である留守居に就任。講武所の総裁、日米修好通商条約の交渉に当たった。安政の大獄で失脚。 土岐朝利 - 一橋徳川家家老(一橋治済、一橋斉礼)
※この「常陸土岐氏」の解説は、「土岐氏」の解説の一部です。
「常陸土岐氏」を含む「土岐氏」の記事については、「土岐氏」の概要を参照ください。
- 常陸土岐氏のページへのリンク