青蓮院旧仮御所
名称: | 青蓮院旧仮御所 |
ふりがな: | しょうれんいんきゅうかりごしょ |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 京都府 |
市区町村: | 京都市東山区粟田ロ三条坊町 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1942.03.07(昭和17.03.07) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 天明八年京都大火ノ砌仙洞御所罹災ノ厄ニ遭ヒ後櫻町上皇難ヲ白川照高院ニ避ケ給ヒシガ数日ニシテ青蓮院ニ御移徙假御所トセラレ天明八年二月四日ヨリ寛政二年十一月二十五日迄御座アラセラレタリ、又明治天皇明治元年八月二十九日天智天皇御陵、孝明天皇御陵御参拜ノ際御小休、同年東京行幸ノ際九月二十日御晝■ヲ召サセラレ還幸ノ際十二月二十二日御小休、翌二年再度東京行幸ノ際三月七日御小休アラセラレタル處ナリ 明治二十六年九月熾盛光堂、辰殿、白書院、常御殿等ノ主要堂舍燒失セシガ其ノ阯ハ尚之ヲ推定シ得ラルヽノミナラズ四脚門、明和年中ニ設ケラレタル御學問所(好文亭)等ハ罹災ヲ免レテヨク舊規模ヲ存セリ又叢殿ハモト喜多御殿トセラレ舊境内北部ノ地ニ在リシガ一時下立賣御門内舊久邇宮邸内ニ移サレタルモノニシテ舊時ノ遺構トシテ注意スヘキ |
青蓮院
(青蓮院旧仮御所 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/08 23:06 UTC 版)
青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。開山は伝教大師最澄、現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。
注釈
- ^ 日本三大不動とされるものは青蓮院の青不動、園城寺の黄不動、高野山明王院の赤不動の他に不動院岩屋堂の黒皮不動明王(黒不動)、瀧泉寺の目黒不動など諸説ある。
- ^ ただし、慈円が著した『愚管抄』には行玄を「青蓮院座主」と呼んでいる箇所があり、慈円の時代には行玄の後継者を「青蓮院」と呼んでいた可能性がある[4]。
- ^ 稲葉伸道の整理に従えば、慈円は良尋(九条兼実の子)と真性(以仁王の子)に青蓮院門主を譲った事実が確認できるものの、共に慈円との不仲から追放の上に門主の悔返が行われた(門主を譲った事実が取消されたために歴代に含まれない)。その後、後鳥羽上皇の皇子である道覚法親王を後継者にしたものの、承久の乱によって道覚が退去を余儀なくされたために、改めて良快(九条兼実の子、良尋の弟)を後継者として門主を譲った(第4世)。慈円の没後、道覚は次期門主としての地位を取り消された訳ではないと後嵯峨上皇に訴えて宝治2年(1248年)の院宣によってその事実を認定されて良快の後継者である慈源(九条道家の子、第5世)に代わって道覚が門主となる(第6世)。しかし、直後に道覚が死去して慈源が門主に復帰、その慈源も実父である九条道家の失脚によって辞任を余儀なくされるが、道覚・慈源ともに独自に後継者を指名していたために青蓮院はは2つの派閥が形成され、「良快 - 慈源 - 慈禅 - 尊助法親王② - 慈実 - 慈玄 - 慈深 - 尊円法親王」「道覚法親王 - 最守 - 尊助法親王① - 道玄 - 慈助法親王 - 良助法親王 - 慈道法親王」の流れが形成されることになる。なお、尊助法親王は初めは最守が次の後継者として定めていた道玄に門主を譲った(①)が、後に道玄及びその後継者である慈助法親王との不仲から悔返を宣言して改めて慈源・慈禅の流れを汲む慈実に門主を譲っている(②)。
出典
- ^ 天台宗について - 主な寺院 天台宗
- ^ 稲葉 2019, pp. 278-280・303.
- ^ 衣川仁 著「延暦寺三門跡の歴史的機能」、永村眞 編『中世の門跡と公武権力』戎光祥出版、2017年。ISBN 978-4-86403-251-3。
- ^ 稲葉 2019, pp. 277–278.
- ^ 稲葉 2019, pp. 280–291.
- ^ 衆議院会議録(第51回国会 文教委員会 昭和41年(1966年)6月1日)
- ^ 平成17年6月9日文部科学省告示第87号
- ^ 文化財保護委員会『指定文化財総合目録 美術工芸品篇』(昭和33年版)において青蓮院の所有とされている物件を挙げた。
- ^ a b 文化庁 編『国宝・重要文化財総合目録』第一法規、1980年。では所有者不明の部に収録されている。
- ^ 稲垣浩『日本映画の若き日々』毎日新聞社、1978年。
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