舊境内とは? わかりやすく解説

旧境内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 08:05 UTC 版)

周防国分寺」の記事における「旧境内」の解説

古代の旧境内の寺域は、南北約2町・東西約1町10間。古代創建期から現在まで同じ規模で残るとして著名で、現在までの発掘調査でもほぼ確実視されている。また伽藍については、1953-1955年(昭和28-30年)の発掘調査金堂・塔・回廊中門南門裏門遺構検出推定されたが、その後の調査中門・回廊検出疑問視されているなど、伽藍中枢の様相依然明らかではない。主な遺構次の通り金堂 本尊祀る建物現在の金堂重複する基壇建物は、桁行24.9メートル梁間13.2メートル測る基壇南側基壇とは別に塼積が認められており、金堂整地擁壁推測される創建期の礎石中世-近世期抜き取られ再利用されている。中世期金堂古代より一回り小さ規模になる。なお、諸国国分寺では講堂跡上に本堂再建される例が多いことから、当寺においても金堂跡でなく講堂跡である可能性指摘される。 塔 経典金光明最勝王経)を納めた塔(国分寺以外の場合釈迦遺骨舎利)を納めた)。貞治2年1363年)の仏舎利寄進状によれば当時五重塔存在したことが知られるほか、『防長風土注進案』では仁王門東北20間、本堂東南30間に所在する旨が記され、「国分寺荒図」において3間×3間の礎石16個が描かれている。明治半ばまでは礎石現地にあったが、その後持ち去られたという。発掘調査では、基壇建物一辺7.88メートル五重塔推定されるそのほか金堂西側の西限溝内側において南北棟の掘立柱建物認められており、食堂僧房工房可能性指摘される。また近世期には寺域北側花月があったが、明治期三田尻御茶屋移築されている(江戸時代三田尻御茶屋から萩移築され花月とは別)。 寺域については、1966年昭和41年)に石田茂作によって、元々の寺域は2町四方正方形で主要伽藍もその中軸線上にあり、その後寺域長方形狭めるとともに伽藍も東に移して建て直したとする案が発表されたが、その後の発掘調査否定されている。 寺域からは多量の瓦が出土しており、創建期のセット抽出されているが、未だ平安中世近世通した様相解明には至っていない。 軒平瓦軒丸瓦奈良時代防府市文化財郷土資料館展示軒平瓦軒丸瓦室町時代防府市文化財郷土資料館展示軒平瓦軒丸瓦江戸時代防府市文化財郷土資料館展示

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旧境内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:08 UTC 版)

元興寺」の記事における「旧境内」の解説

奈良時代元興寺伽藍は、南大門中門金堂本尊弥勒菩薩)、講堂鐘堂食堂じきどう)が南北一直線並び中門左右から伸びた回廊金堂囲み講堂左右に達していた。回廊外側、東には五重塔中心とする東塔院、西には小塔院があった(小塔院には、国宝五重小塔が屋内安置されいたもの思われる)。これらの建物はすべて焼失して現存しない。なお、講堂背後左右には、数棟ずつの僧房(僧の居住する建物)があった。これは、東西長い長屋のような建物で、このうち東側手前にあった僧房鎌倉時代改造したものが、現存する極楽坊本堂禅室である。 金堂跡付金堂礎石 講堂礎石

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