特例会見発表までの経緯
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「天皇特例会見」の記事における「特例会見発表までの経緯」の解説
中国政府は1978年に訪日した鄧小平副首相、1992年に訪日した中国共産党中央委員会総書記江沢民、1998年に訪日した国家副主席胡錦濤(第4代党総書記・第6代国家主席)は天皇と会見していたことから、習国家副主席の訪日に際しても同様の会見を求めていた。日本の外務省は中国政府に対して早く申請を行うよう促したが、1ヶ月前までに申請する慣例にはならわなかった(後述)。中国側の報道には「日本の外務省から宮内庁への申請が遅れた」とするものもある。日程調整は水面下で行われていたが、12月11日に羽毛田宮内庁長官が経緯について記者会見で公にしたことから注目され、同14日に小沢民主党幹事長が同長官の対応を批判したことからメディアで大きく取上げられはじめた。なお、1ヶ月ルールに抵触する願い出案件に付いては儀典総括官から式部官へ可及的速やかに打電するようにとの通達を宮内庁は平成16年2月3日(2004年)(後述)に行っている。 2009年初頭、中国側から外務省へ中国側から日中間のハイレベル交流の一環として「国家指導者」の来日を打診されていた。 2009年10月下旬、来日するのは次期党総書記・最高指導者に内定している国家副主席であり天皇陛下との会見を希望と外務省へ打診、外務省は1ヶ月ルールを中国側に説明し早急な日程確定を要請するが中国側は12月の中央経済工作会議の日程が決まらないとわからないと返答。 2009年11月19日、楊潔篪中国外相の随行者が、習氏の12月中旬頃の訪日を内報し、外務省が宮内庁に会見を要請した。 2009年11月20日、中国外相楊潔篪が小沢一郎民主党幹事長に国会議事堂内で国家副主席の訪日成功のための協力を求める。楊潔篪外相と鳩山由紀夫首相が首相官邸で会談。 2009年11月23日、中国側が習国家副主席の訪日日程を正式に伝達してきた。 2009年11月26日、外務省が宮内庁に天皇と習国家副主席の会見を打診。 2009年11月27日、宮内庁は「1ヶ月ルール」に照らして応じることはできないと返答する。 2009年11月30日、外務省が鳩山由紀夫首相と平野博文内閣官房長官に「会見は不可能」と伝える。日本政府は中国政府に天皇の健康状態を理由として会見を断る。 2009年12月4日、小沢民主党幹事長と鳩山首相が首相官邸で会談。 2009年12月7日、鳩山首相が平野博文内閣官房長官に「何とかできないか、非常に重要なんだけど」と指示。平野内閣官房長官は、羽毛田信吾宮内庁長官に電話で、「日中関係の重要性に鑑み、是非お願いする」と指示したが、羽毛田宮内庁長官は「政府内で重視されてきたルールであり、尊重して欲しい」と抗弁する。宮内庁は首相官邸に「陛下の健康状態が万全ではない」と説明する。平野博文内閣官房長官の指示を受けて、12月7日前後に外務省の垂秀夫中国・モンゴル課長が中曽根康弘元首相を訪問して「30日ルール」を説明すると中曽根は「了解した」と応えた。 2009年12月8日、小沢民主党幹事長が鳩山首相に「会見はやらないとだめだ」「何をやっとるのか」「ゴチャゴチャやっとらんで早くせい」と電話で伝える。 2009年12月9日、日本政府は「陛下のご健康がすぐれず、会見に応じるのは難しい」との認識を強調して中国政府に断念するよう説得。中国側も「陛下のご健康に配慮し会見を見送るなら、やむを得ない」と要請を受け入れたが、小沢民主党幹事長は平野内閣官房長官に電話で「しっかりやってほしい」と要請を行った。 2009年12月10日、小沢訪中団(民主党国会議員143名、随行員・一般参加者など483名)、北京へ出発。平野内閣官房長官が羽毛田宮内庁長官に電話で、「君のいうのもわかるけど、日中関係は重要だから。これは内閣としてのお願いだ」と指示。胡錦濤国家主席と小沢民主党幹事長が人民大会堂で会談する。 2009年12月11日、日本政府は天皇が習国家副主席と12月15日に会見を行うことを発表。中国外務省は日本側の日程調整に感謝する旨の談話を発表する。 2009年12月15日、天皇と習国家副主席の会見が行われた。
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