アインシュタインの発表の経緯
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「重力レンズ」の記事における「アインシュタインの発表の経緯」の解説
アインシュタインが重力レンズ効果を発表するまでの経緯で、風変わりな逸話がある。 1936年の春に、チェコの技術者でアマチュア科学者のルディ・マンドル (Rudi W. Mandl) が、米国ワシントンの米国科学アカデミーを訪ねてきた。彼は自分が考え出した重力レンズのアイディアを論文にしたいと切望していたのである。その熱心な依頼と、拒否するにはもったいないアイディアゆえに、木で鼻をくくったような返事もできず、彼を持てあましたアカデミーの担当者は、相対性理論にとってこれ以上ない権威者のアインシュタインに頼むように言い、おまけにプリンストン高等研究所までの旅費まで渡したのである。 1936年4月17日にマンドルは、プリンストン高等研究所にアインシュタインを訪ねた。意外なことに、アインシュタインは珍客にとても親切でマンドルの話を熱心に聞いてくれた。マンドルは自分のアイディアを熱く語り、大科学者の説得に成功したのであった。アインシュタインは、マンドルのアイディアを論文にして学術雑誌『サイエンス』1936年12月4日発売号に投稿したが、その論文 "Lens-like action of a star by the deviation of light in the gravitational field " の冒頭に次のように書いている。「しばらく前に、ルディ・マンドルが訪ねてきて、ちょっとした計算結果を出版して欲しいと私に依頼した。本稿は彼の希望に応じたものである。」 アインシュタインは、論文発表後、『サイエンス』誌の編集者ジェームズ・マッキーン・キャッテルに宛てた1936年12月18日付の手紙の中で、「あの論文はマンドル氏をなだめるために書いたのです。マンドル氏が私に強いたあの小論を雑誌に載せていただいて感謝しています。ほとんど価値のない論文ですが、あの可哀想な男は喜んでいるでしょう。」と書いている。
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