日本の貝塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 01:29 UTC 版)
縄文時代の貝塚は、日本列島では約2500個所発見されている。既に発見されている箇所の4分の1近くは、東京湾の東沿岸一帯で占められるが、これは、この地域での土地改変が著しく、分布調査及び発掘調査が進んでいることが大きな理由であり、地下に埋蔵される貝塚の全国的な分布状況とは別問題であることには注意を要する。なお、東京湾の東沿岸(千葉県下)でも、とりわけ千葉市内は分布密度が高いとされる。このほか貝塚が集中して分布している地域としては、太平洋沿岸の大きな内湾であり干潟がよく発達した仙台湾や大阪湾などをあげることができる。 東京湾岸にも集中している貝塚であるが、作られ方は時期によって違う。縄文時代早期では、竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、縄文前期にも早期と同様の貝塚が形成されている。 縄文中期になると、前期から成立し始めた環状集落がより増加する。住居がムラのほぼ中程の広場を囲んで配置されていて、それらの住居跡に貝殻等が多量に遺棄・蓄積されるようになったので(考古学者の谷口康浩は「廃棄帯」と呼称する)、結果として環状や馬蹄形状の貝塚の並びが形成されたように見える。加曽利貝塚や蛸ノ浦貝塚などがこれに類する。 日本列島は酸性土壌であり、骨などの有機物が残り難い。しかし、貝塚は大量の貝殻に由来する炭酸カルシウムが豊富なために土壌をアルカリ性に保ち、鳥獣や魚などの骨格(動物遺体)がよく保存されているので、当時の生産や海辺の生活を知る動物考古学の観点から貴重な遺跡となっている。 貝塚が太古の人々の遺したものであるという考えは、奈良時代にすでにあったと言うべきかも知れないが、まだまだ怪しい理解の仕方ではあった。それと言うのも、奈良時代に成立した『常陸国風土記』の「那賀略記」に、海岸からかなり離れた場所でありながら誰かが海辺の貝を獲って食べて捨てるを長く続けたことでできあがったと考えられる岡(丘)についての記述があり、その誰かというのは上古の住人で、巨人であったと語っているからである。書き手はこの岡を昔の人は「大朽(おおくち)」と呼んでいたとも言及しており、大量の貝が朽ちていることに由来する地名であると理解できているように思われる一方で、縄文海進による海岸線の大きな移動を知る由もなかった時代の理解として人智を超えた“巨人”が創出されているのであり、従って、奈良時代の知識人には貝塚がある程度まで理解されてはいても、普通の人間の生活痕跡とは思われていなかったことが分かる。地名はまた、今は「大朽」から転じた「大櫛之岡(おおくしのおか)」であるとも語られており、昭和時代の研究者をしてこの貝塚は現在の「大串貝塚(おおくし かいづか)」に比定されている。詳しくは「ダイダラボッチ#常陸国風土記」および「大串貝塚」を参照のこと。理解の度合いはともかくとして、上述した「大櫛之岡の巨人伝説」が、「貝塚遺跡が文献に記された日本最古の例」であり、さらに言えば「石器時代遺跡が記録された日本最古の例」である。 日本における貝塚の本格的調査研究は、1877年(明治10年)、アメリカ人動物学者エドワード・S・モースが列車の窓越しに発見して同年中に直ちに行った大森貝塚(大森貝墟)の発掘調査に始まる。大森貝塚は、東京府荏原郡大井村鹿島谷(cf. 荏原郡#町村制以降の沿革。現在の東京都品川区大井6丁目)にある、鉄道建設に伴う掘削工事に伴って露出した、貝殻が混じった土手であったが、一躍、モースの業績によって貝塚研究の分野では広く知られる遺跡になった。また、日本の考古学の発祥地と見なされることになった。 日本最古とされる貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両貝塚から出土している。 日本人によって初めて本格的な発掘調査・報告が行なわれた貝塚は、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚である。1905年(明治38年)には、横浜に居留していたイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローによって、縄文時代後期から弥生時代前期の貝塚である三ツ沢貝塚(所在地:神奈川県横浜市神奈川区沢渡ほか)が発見される。 日本にある貝塚の一覧については「日本の貝塚一覧」や「Category:日本の貝塚」を参照
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