掃守小麻呂とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 掃守小麻呂の意味・解説 

掃守小麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 07:10 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

掃守 小麻呂(かにもり の おまろ)は、飛鳥時代の武人。冠位小乙上

出自

「掃守連氏」は朝廷の清掃・舗設を職能とする品部である「掃守部」を率いた伴造氏族で、『新撰姓氏録』では、「左京神別」「河内国神別」に分類され「振魂命四世孫、天忍人命之後也」とあり、尾張国造と同族となっている。高安郡掃守郷(現在の大阪府八尾市南高安町一帯)を根拠地としていたと推定される。一族には、大化5年(649年)9月に三輪君色夫とともに新羅に派遣された掃部連角麻呂がおり、外交関係で重用された一族であったことが窺われる。

記録

白雉4年(653年)、遣唐第2船の大使高田首根麻呂の副使として、学問僧道福(どうふく)・義向(ぎきょう)ら120名とともに乗船し、に派遣された。このときの位は小乙上であった[1]

同年7月、高田根麻呂らは薩摩の曲(くま)と竹嶋との間で船が衝突し、そのまま沈没して水死した。この時5名だけは板に捕まり、竹島に流れ着き、そこから更に筏を造って、飮まず食わずの6日間を費やして神嶋(しときしま、今の甑島列島上甑島)へ辿りついたという[2]。この生存者の中に掃守小麻呂の名前はなく、よって遣唐船とともに海の藻屑と消えたようである。

同時に出航した遣唐第1船の大使吉士長丹・副使吉士駒らは無事唐に到達し、目的を果たして、翌白雉5年(654年)7月新羅・百済の送使とともに筑紫に到着している。

これより先んじて同じ年の2月、押使高向玄理大使河辺麻呂・副使薬師恵日らからなる第三次遣唐使が派遣されている[3]

掃守連一族は、天武天皇13年12月(684年)に八色の姓で、宿禰を賜姓されている[4]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉4年5月12日条
  2. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉4年7月条
  3. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年2月条
  4. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「掃守小麻呂」の関連用語

掃守小麻呂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



掃守小麻呂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの掃守小麻呂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS