夏侯孜
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夏侯 孜(かこう し、生没年不詳)は、唐代の官僚・政治家。字は好学。本貫は亳州譙県[1][2]。
経歴
庫部郎中の夏侯審(夏侯封の子)の子として生まれた。宝暦2年(826年)、進士に及第した。はじめ節度使の幕府に仕え、婺州刺史・絳州刺史を歴任した。入朝して諫議大夫となり、給事中に転じた。大中10年(856年)、刑部侍郎となった[1]。大中11年(857年)、御史中丞を兼ね、尚書右丞・上柱国に転じ、紫金魚袋を賜った。朝議大夫に転じ[3]、戸部侍郎・判戸部司事をつとめた[4]。大中12年(858年)2月、兵部侍郎を加えられ、諸道塩鉄転運等使をつとめた[5]。5月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[6]。10月、工部尚書となった。大中13年(859年)8月、中書侍郎となり、刑部尚書を兼ねた。大中14年(860年)9月、門下侍郎となり、兵部尚書を兼ねた。10月、検校尚書右僕射・剣南西川節度使として出向した[7]。南詔の侵入があったが、夏侯孜は軍糧の備えをしなかったため、南詔に巂州を攻め落とされて、剣南は混乱に陥った[8]。咸通3年(862年)、検校尚書左僕射となり、門下侍郎を兼ね[9]、譙郡侯に封じられた。路巌や楊収とともに輔政にあたった[8]。咸通5年(864年)、司空となり[10]、貞陵山陵使をつとめた[11]。検校尚書右僕射・河中節度使として出向した[10]。
咸通9年(868年)、夏侯孜はかつての剣南統治の無策を懿宗に譴責された。太子少保とされ、分司東都をつとめた。ほどなく死去した[8][11]。
子女
- 夏侯潭(礼部侍郎)
- 夏侯沢[12]
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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