夏侯孜とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 夏侯孜の意味・解説 

夏侯孜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 01:14 UTC 版)

夏侯 孜(かこう し、生没年不詳)は、唐代官僚政治家は好学。本貫亳州譙県[1][2]

経歴

庫部郎中の夏侯審(夏侯封の子)の子として生まれた。宝暦2年(826年)、進士に及第した。はじめ節度使の幕府に仕え、婺州刺史絳州刺史を歴任した。入朝して諫議大夫となり、給事中に転じた。大中10年(856年)、刑部侍郎となった[1]。大中11年(857年)、御史中丞を兼ね、尚書右丞・上柱国に転じ、紫金魚袋を賜った。朝議大夫に転じ[3]戸部侍郎・判戸部司事をつとめた[4]。大中12年(858年)2月、兵部侍郎を加えられ、諸道塩鉄転運等使をつとめた[5]。5月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[6]。10月、工部尚書となった。大中13年(859年)8月、中書侍郎となり、刑部尚書を兼ねた。大中14年(860年)9月、門下侍郎となり、兵部尚書を兼ねた。10月、検校尚書右僕射・剣南西川節度使として出向した[7]南詔の侵入があったが、夏侯孜は軍糧の備えをしなかったため、南詔に巂州を攻め落とされて、剣南は混乱に陥った[8]咸通3年(862年)、検校尚書左僕射となり、門下侍郎を兼ね[9]、譙郡侯に封じられた。路巌や楊収とともに輔政にあたった[8]。咸通5年(864年)、司空となり[10]、貞陵山陵使をつとめた[11]。検校尚書右僕射・河中節度使として出向した[10]

咸通9年(868年)、夏侯孜はかつての剣南統治の無策を懿宗に譴責された。太子少保とされ、分司東都をつとめた。ほどなく死去した[8][11]

子女

  • 夏侯潭(礼部侍郎)
  • 夏侯沢[12]

脚注

  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4603.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 5373.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4603–4604.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 635.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 643.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 644.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 1735.
  8. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4604.
  9. ^ 新唐書 1975, p. 1736.
  10. ^ a b 新唐書 1975, p. 1737.
  11. ^ a b 新唐書 1975, p. 5374.
  12. ^ 旧唐書 1975, p. 4605.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  夏侯孜のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「夏侯孜」の関連用語

夏侯孜のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



夏侯孜のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの夏侯孜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS