王式の起用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:08 UTC 版)
朝廷では鄭祗徳に代わる武将を協議していた。そのとき同中書門下平章事(宰相)の夏侯孜が「浙東は険阻な土地柄で、計略で取ることはできても力ずくで攻略することは困難です。前安南都護の王式は文官出身ですが、安南で漢族も異民族もともに服従させ、その威名は遠近にとどろいております」と王式を推薦し、諸将たちも賛成したので、浙東観察使とし、鄭祗徳は召還して賓客(太子賓客:東宮侍従官のひとつ)とした。 3月辛亥、王式は宮中に参内した。賊討伐の計略を下問した天子に「兵力さえ手に入りますならば、賊は必ず打ち破ることができます」と答えた。莫大な費用がかかると主張する側近の宦官には「兵力が多いと賊をすみやかに打ち破ることができて、費用は少なくて済みます。もし兵力が少ないと賊に勝つことができず、歳月が延びるばかりで賊の勢力はますます盛んになるでしょう。国家の財政は全て江淮方面に仰いでいる現状では、そこからの税収が杜絶してしまえばかえって費用がかさむことになります」と応じた。聞いた天子は詔を下して、忠武・義成・淮南などの諸道の兵士を出して王式に授けた。
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