王建の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:45 UTC 版)
唐の力を借りて高句麗・百済を滅ぼした新羅も9世紀末になると国力が衰退し、各地で反乱が起こっていた。 北方での新羅への反乱軍の指導者であり後高句麗を建国した泰封王である弓裔(クンイェ)に従い、松嶽城主・鉄原太守を歴任し、西南海域の水軍を統率して活躍していた。後高句麗は、新羅や後百済に対して優勢を占めており、王の弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとした。しかし弓裔が部下に対して傲慢で乱暴になるなど暴君になったため、918年に弓裔の部下である洪儒(ホン・ユ)、裴玄慶(ペ・ヒョンギョン)、申崇謙(シン・スンギョム)、卜智謙(ポク・チギョム)らは、弓裔を追放し易姓革命を起こして王位を奪い王建を新たな指導者として擁立した。
※この「王建の台頭」の解説は、「太祖 (高麗王)」の解説の一部です。
「王建の台頭」を含む「太祖 (高麗王)」の記事については、「太祖 (高麗王)」の概要を参照ください。
- 王建の台頭のページへのリンク