チョウヨクとは? わかりやすく解説

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ちょう‐よく〔テウ‐〕【趙翼】

読み方:ちょうよく

[1727〜1814中国、清の歴史学者文学者。陽湖(江蘇省)の人。字(あざな)は、また耘(うんしょう)。号、甌北(おうほく)。考証をもととした史学者として有名で、著に「二十二史箚記(さっき)」「陔余叢考(がいよそうこう)」がある。詩に「甌北詩鈔」、詩の評論に「甌北詩話」など。


張翼Zhang Yi

チョウヨク
チヤウヨク

(?~264
左車騎将軍・仮節・督建威・冀州刺史・都亭侯

字は伯恭犍為郡武陽県の人。高祖父は漢の司徒張浩、曾祖父広陵太守張綱である。

劉備益州平定して益州となったとき書佐に任じられる建安末年孝廉推挙され江陽県長となり、のち涪陵県令梓潼広漢蜀郡太守栄転ていった

建興九年(二三一)、張翼は庲降都督・綏南中将に任じられたが、その性格から、法律厳格に適用するばかりで異民族機嫌を取ろうとしなかった。そのため異民族頭目劉冑が叛乱起こし、張翼は軍を率いて鎮圧あたったが、作戦途中で中央からお召しかかった部下たちは「急いで謝罪の意を示すべきです」と勧めたが、張翼は「いや、わしに蛮族懐柔能力がないので任を解かれるだけのことだ。後任者のために兵糧輸送蓄積行って置くべきで、免職恐れて公務投げ出すわけにはいかぬ」と言い後任者馬忠が来るまで指揮を採り続けた丞相諸葛亮はそれを聞いて感心した

諸葛亮北伐にあたって張翼を前軍都督任じ扶風太守兼ねさせた。諸葛亮陣没すると前領軍に移り、劉冑討伐功績により関内侯封じられる延煕元年二三八)、中央入って尚書任じられ間もなく督建威・仮節を加えられ征西大将軍・都亭侯となった。同十五年、衛将軍姜維とともに成都帰還した

姜維が再び北伐提案したとき、ただ一人張翼は国家弱小民衆疲労理由反対した。姜維はこれを聞かず、張翼を鎮南大将軍任じ、彼らを率いて北征の軍を起こした姜維らは狄道至って魏の雍州刺史王経大い破ったが、張翼は「追撃すべきではありません。進めば武功に傷が付きますぞ」と言った姜維腹を立てて聞かず狄道城を包囲した陥落させられなかった。こうして姜維内心では張翼を疎んじるようになったが、遠征のときはいつも彼を引き連れ、張翼もやむを得ず従っていた。

景耀二年(二五九)に左車騎将軍・冀州刺史昇進する。同六年、姜維に従って剣閣に駐屯し、ともに涪城にいた魏の鍾会帰服した。ところが翌年正月鍾会成都叛逆し、張翼はその混乱の中で兵士殺された。

参照王経 / 姜維 / 諸葛亮 / 鍾会 / 張浩 / 張綱 / 馬忠 / 劉冑 / 劉備 / 益州 / 冀州 / 魏 / 剣閣 / 建威 / 犍為郡 / 広漢郡 / 江陽県 / 広陵郡 / 梓潼郡 / 蜀郡 / 成都県 / 狄道県 / 涪県 / 扶風郡 / 武陽県 / 涪陵県 / 雍州 / 庲降 / 衛将軍 / 関内侯 / 県長 / 県令 / 孝廉 / 左車騎将軍 / 刺史 / 司徒 / 尚書 / 丞相 / 書佐 / 綏南中郎将 / 征西大将軍 / 前軍都督 / 前領軍 / 太守 / 鎮南大将軍 / 督 / 都亭侯 / 牧 / 庲降都督 / 仮節 / 推挙



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