復帰後、山西派壊滅まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:35 UTC 版)
1931年(民国20年)8月、山西に戻り、1932年(民国21年)3月に太原綏靖公署主任に任命されて復権した。1935年(民国24年)4月に陸軍一級上将銜を授与され、12月には軍事委員会副委員長に任じられている。しかし、1936年(民国25年)2月、陝西省から「東征」してきた紅軍(中国共産党)に晋綏軍は惨敗を喫する。これに危機感を覚えた閻錫山は反共から「連共抗日」路線への転換を表明して共産党と和解し、9月には犠牲救国同盟会を成立させた。 1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、第2戦区司令長官兼山西省政府主席として日本軍に対峙する。閻錫山の地盤は、日本軍、国民党中央軍、共産党軍の進出で動揺した。1939年(民国28年)には、勢力を増大させた共産党軍との間で衝突(晋西事件)も起きる。1941年(民国30年)9月には日本の「対伯工作」を利用して現地日本軍と停戦協定を締結し、兵力を温存した。 1946年(民国35年)から始まった国共内戦では、山西軍に加え、残留した日本兵(中国山西省日本軍残留問題を参照)の部隊(暫編独立第十総隊)を使い、中国人民解放軍と戦った。しかし、閻錫山は次第に劣勢に追い込まれて省会(省都)太原を人民解放軍に包囲されてしまう。1949年(民国38年)3月、代理総統の李宗仁が閻錫山を召還したことも理由となり、飛行機で太原を脱出、南京に逃れた。太原では娘婿の王靖国らが残留して抗戦を継続したが、4月24日に陥落、37年もの間続いた山西派の勢力はここに消滅した。
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