復帰宣言以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 05:35 UTC 版)
1961年7月、32歳になったカラザースはライト級もしくはフェザー級でボクサーとして復帰する計画を発表した。引退から7年後のその発表はボクシング界を驚かせた。目的のひとつはナンブッカヘッズ(英語版)でのモーテル建設に向けて資金を確保することだった。カラザースはこの年、ウールルームールーのホテルを売却し、数か月前からトレーニングを再開していたが、体重は140ポンドになっていた。今度もカラザースから相談は受けていなかったというマギルの反応は、「彼のビジネスで彼の体だ。ふさわしい相手が何人かいるだろうが、冒険には金は払えない」というものだった。 復帰後のカラザースは、陸上競技のコーチをしていたパーシー・セルッティ(英語版)の指導を受けたが、6戦のうち4試合で敗北。まずイタリア人選手とオーストラリアの元アマチュアエリートに12回判定負け。次いで米国人選手に5回TKO負け。その後さらに質の劣る選手と3戦して、5回TKO負けから2連続2回KO/TKO勝ちの後、ニュージーランド・ウェリントンに遠征して8回失格負けを喫し、今度は選手生活から完全に引退した。復帰後の6戦を含めるとカラザースは116ポンドから133ポンドの重量で戦い、プロボクサーとしての全戦績は、25戦のうち、13戦はKO勝ち、8戦は判定勝ち、2戦は判定負け、1戦はKO負け、1戦が失格負けとなった。 この後は長年レフェリーを務め、1960年代から1970年代にかけては妻とともにアバロン(英語版)で果物店とミルクバーを、またシドニー市内ではジュースバーを経営した。晩年には定期的に教会に通うようになり、キリスト教の教会で洗礼を受けていた。
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