ベイブルースとは? わかりやすく解説

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ベーブ‐ルース【Babe Ruth】

読み方:べーぶるーす

ルース


ベイブルース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 17:22 UTC 版)

ベイブルース
メンバー 河本栄得
高山知浩
結成年 1988年 
解散年 2001年 
事務所 吉本興業
活動時期 1989年4月 - 1994年10月
(河本の逝去により活動停止)
出身 NSC大阪校7期
出会い 大阪市立桜宮高等学校
旧コンビ名 河本・高山
現在の活動状況 解散(河本は逝去、高山は別コンビで活動)
芸種 漫才コント
ネタ作成者 河本栄得
同期 宮迫博之
蛍原徹
なるみ
矢部美幸
安尾信乃助 など
受賞歴
1989年 第19回NHK上方漫才コンテスト 新人賞
1989年 第10回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール 福笑い大賞
1989年 第4回NHK新人演芸コンクール 優秀賞
1990年 第11回ABCお笑い新人グランプリ 最優秀新人賞
1990年 第20回NHK上方漫才コンテスト 優秀賞
1990年 第25回上方漫才大賞 新人奨励賞
1991年 第20回上方お笑い大賞 銀賞
1995年 第30回上方漫才大賞 審査員特別賞
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ベイブルースは、かつて吉本興業で活動していた日本お笑いコンビ1988年結成。1994年10月31日、メンバーの逝去に伴い事実上の活動停止となり、2001年11月1日をもって正式に解散した。

メンバー

  • 河本 栄得(かわもと えいとく、1968年11月1日 - (1994-10-31) 1994年10月31日(25歳没))
    • ボケ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって左。
    • 大阪府大阪市港区出身。
    • 漫才に厳しく、コンピュータのように漫才の細かい部分まで研究しながらネタ作りをしていた。
    • 兄貴肌で、自分のボケに対して期待通りの返しをしなかったと高山を怒鳴りつけたことがある。その間、高山は何も言わず俯いていた。
    • 後藤秀樹(元シェイクダウン)のツッコミを高く評価したり、竹若元博バッファロー吾郎)を「西のマチャアキ」と称したりなど他の芸人への観察を払っていた。
    • 1994年10月31日、劇症肝炎による脳出血のため逝去。10月中旬に体調不良で入院して半月後のことで26才の誕生日を翌日に控えての逝去だった。

略歴

NSC大阪校7期出身。共に、大阪市立桜宮高等学校(現・大阪府立桜宮高等学校)の同級生で硬式野球部出身。野球部の同級生に矢野燿大がいる。同期には雨上がり決死隊(解散)、矢部美幸(矢部浩之ナインティナイン)の兄)などがいる。当時はずば抜けた実力を持ちながら、河本の突然の逝去によって解散を余儀なくされた(2001年正式に解散)伝説のお笑いコンビと言われている。

1988年5月、河本が高校卒業後スイミングスクールに就職していた高山を誘う形でNSC在学中に『河本・高山』を結成。NSC7期卒業間近の1989年2月18日には、「昭和63年度 第19回NHK上方漫才コンテスト」(河本・高山名義)への本選出場を果たす。1989年4月、NSC卒業に合わせ『ベイブルース』に改名。コンビ名の由来は野球選手ベーブ・ルースからだが、本人たちが照れから「上田正樹の『悲しい色やね』の歌詞・大阪ベイ(ブルースから取った」ということにしていたため、本来の由来とは表記が異なっている[要出典]

デビュー後、上方お笑い大賞など数々の新人賞を獲得。また、CDをリリースして歌手デビューをするなど活動は順調であった(CDが発売されたのは河本の死後)。

だがコンビとしての更なる活動が期待された矢先、河本が劇症肝炎のため急逝。高山はピン芸人としての活動を余儀なくされる。その間は「ベイブルース高山」(番組によってはベイブルース高山知浩の表記も)と名乗っていた。これは「ベイブルースの存在を忘れてほしくなかった」「自分が河本の分まで頑張っていきたい」という思いからであった。

その後、高山は和泉の誘いで、2001年9月18日にコンビ『ケツカッチン』を結成。同年11月1日に関西地区で放送された番組内で、「ベイブルースは本日を以って解散します」とファンに向けて発表した。コンビ結成から12年目のことだった。

評価

どちらも芸人としての意識が非常に高い(プロデューサー談)。後輩からは恐れられる部分もあったものの、人柄の良さもあり慕われていた。

芸風は主に漫才で漫才のクオリティは当時の若手でも群を抜いており、NSCの同期である宮迫博之(元雨上がり決死隊)は「同期にベイブルースっていう物凄い漫才のうまいコンビがおったから、これは勝てないと思って俺らはコント主体でいくことにした」と語っている。また、コントも行うことがあった。

解散後の活動

2001年のケツカッチン結成後は常にベイブルースとして活動することはないが、現在でも不定期でイベントを開催しては復活するなど、活動は続いている。

このイベントには、高山・河本両名と交流のある種浦マサオ清水キョウイチ郎が出席。なお清水はイベント4日後の2006年11月4日肺血栓により逝去、これが最期の仕事となった。

2009年10月31日、高山は「ベイブルース 25歳と364日」を出版。同年11月29日には没後15年ということで同期や後輩を集めたイベント「25歳と364日 〜ベイブルースよ、伝説に〜」を開催、ベイブルースとして最後のコントを披露した。

またこの本は、2011年11月3日京橋花月にて後輩の黒田有メッセンジャー)による演出で「『RUN』〜ベイブルース 25歳と364日〜」として芝居化。3年後の2014年10月31日には高山が自ら監督を務め映画化され、河本の誕生日となる翌日の11月1日に舞台挨拶が行われた[1][2][3]

2014年8月の『水野真紀の魔法のレストランR』(毎日放送)にて、2人を可愛がっていたシルクと高山、後輩の兵動大樹矢野・兵動)による3人で河本が頻繁に通っていた店を3軒回りながら、高山が河本とのエピソードを回想した。

2022年5月30日、『お笑い実力刃presents 証言者バラエティ アンタウォッチマン!』(テレビ朝日)にてベイブルースの特集が組まれた。元相方である高山、千原ジュニア千原兄弟)、蛍原徹FUJIWARA桂三度らによって当時の河本に纏わる貴重なエピソードや漫才の映像が披露された[4][5][6][7][8][9]

受賞歴

出演

ケツカッチン結成以降の高山の出演状況については、高山トモヒロの項目を参照のこと。

ライブ・イベント

  • 新・頭一抜群(1994年12月25日・26日)
  • キンバラジロー(不定期開催)- ベイブルース高山名義で出演。現在は終了。
  • 高山トモヒロ & 種浦マサオの親友きどり #1 - #2(不定期開催)

テレビ番組

ラジオ番組

映画・ドラマ

CM

ディスコグラフィ

関連書籍

関連項目

脚注

  1. ^ 『ベイブルース ~25歳と364日~』特集:吉本の芸人たちがこぞって尊敬!天才漫才コンビ、ベイブルース伝説BEST7”. シネマトゥデイ (2014年10月24日). 2022年6月5日閲覧。
  2. ^ 夢半ばで急逝した伝説の漫才芸人、河本栄得の壮絶な人生に迫る”. シネマトゥデイ (2014年10月26日). 2022年6月5日閲覧。
  3. ^ 伝説の漫才コンビ、ベイブルース1日限りの“再結成”急逝した相方に捧ぐ…”. シネマトゥデイ (2014年11月1日). 2022年6月5日閲覧。
  4. ^ 千原ジュニア、蛍原徹、FUJIWARA、桂三度がベイブルースのすごさを証言”. お笑いナタリー (2022年5月30日). 2022年5月31日閲覧。
  5. ^ 千原ジュニアに漫才をやめさせた…“伝説のコンビ”ベイブルースの圧倒的実力”. テレ朝POST (2022年5月30日). 2022年6月1日閲覧。
  6. ^ FUJIWARA 漫才師「ベイブルース」の凄さを力説「将来の吉本、お笑い界を背負う存在だと」”. スポニチ Sponichi Annex (2022年5月31日). 2022年6月1日閲覧。
  7. ^ 人気絶頂のなか25歳の若さで急逝した芸人の才能を回顧 生きていたら雨上がり決死隊の番組なかった可能性も”. COCONUTS (2022年5月31日). 2022年6月1日閲覧。
  8. ^ 千原ジュニア「漫才を辞めた」理由告白 バチバチだったライバルの存在”. デイリースポーツ (2022年5月31日). 2022年6月1日閲覧。
  9. ^ 千原ジュニア、ライバル関係にあった芸人を語る「雲の上の存在でしたね」”. Sirabee (2022年5月31日). 2022年6月1日閲覧。

外部リンク


ベーブ・ルース

(ベイブルース から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/06 15:23 UTC 版)

ベーブ・ルース
Babe Ruth
1920年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 メリーランド州ボルチモア
生年月日 (1895-02-06) 1895年2月6日
没年月日 (1948-08-16) 1948年8月16日(53歳没)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手外野手
初出場 1914年7月11日
最終出場 1936年5月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
殿堂表彰者
選出年 1936年
得票率 95.13%
選出方法 BBWAA選出

ジョージ・ハーマン・"ベーブ" ・ルース・ジュニアGeorge Herman "Babe" Ruth, Jr., 1895年2月6日 - 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身のプロ野球選手。「バンビーノ(The Bambino)」「ベーブ(Babe)」[注 1]愛称で呼ばれた。

概要

7歳の時、セント・メアリー少年工業学校英語版という少年矯正施設に送られ、同校の教官でザベリオ教職会員英語版の修道士マシアス・バウトラー(Matthias Boutlier)と出逢い、野球選手でもあった同師に野球の手解きを受ける。

MLBで1914年から1935年まで、通算22年間プレイした。左投げの投手としてボストン・レッドソックスでメジャーデビュー。外野手の強打者としてニューヨーク・ヤンキースで最も名声を博した。打者としての生涯通算成績で、714本塁打[注 2]、2213打点、2062四球長打率.690、OPS1.164、本塁打王12回など、数々のMLB記録を打ち立てており、内最後の3つは2024年現在も破られていない。

1936年、最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人のメンバー英語版の1人に選出された[注 3]

1900年から1919年までのデッドボール時代で1916年までには飛距離の長い本塁打を打つ投手として名声を築いていた。投手としては2度のシーズン23勝を記録し、レッドソックスで三度のワールドシリーズ制覇を経験したが、外野手に転向となった。

1919年には29本塁打を放ち、当時のMLBシーズン最多記録を更新した。同シーズン終了後、レッドソックスのオーナーであったハリー・フレイジーは球団経営を巡る論争の最中にルースをヤンキースに売り渡した。このトレードにより、レッドソックスは86年間にわたりワールドシリーズチャンピオンの座から遠ざかり、これを「バンビーノの呪い」の所為としたジンクスが、ボストンのファンを中心に広まった。

ルースはヤンキース移籍後の15年間で、7度のア・リーグ優勝英語版と4度のワールドシリーズ制覇に貢献した。大きなスイングで通算本塁打数を伸ばし、1920年のライブボール時代の代表的選手となった。

1927年には、ヤンキースの「殺人打線英語版」の一員として60本塁打を放ち、自身の持つMLBシーズン記録を1本上回り更新した[注 4]1934年のシーズンを最後にヤンキースを去り、翌年ボストン・ブレーブスに短期間在籍した後、現役を引退した。

選手時代のフィールド外での飲酒や女遊びが原因で、引退後はメジャーリーグクラブの監督になる事を拒否されていた。晩年は公の場に姿を見せることが多く、特に第二次世界大戦においてはアメリカの努力を支持した。

1946年鼻咽頭癌英語版を患い、2年後に死因となる。2018年にはドナルド・トランプ大統領から大統領自由勲章を追贈された。

経歴

生い立ち

メリーランド州ボルチモア市ピッグタウンエモリー通り216番地に生まれた。ドイツ系移民であった両親のジョージ・ハーマン・シニア(George Herman Sr.1871 - 1918)とケイト(Kate 1874 - 1912)は、カムデン通り沿いで酒場を自営しており、家族はその2階で暮らしていた。ケイトはルースを含め生涯に9人の子供を産んだが、成人期を迎えることができたのはルースと5歳年下の妹マミー(Mamie 1900 - 1992)の2人だけであった。

ルースは後年、自らの幼年期を振り返って「大変だった」と語っている。母は病弱であり(ルースが16歳のときに結核で亡くなっている)、父は酒場の仕事で息子を見れなかったらしい。ルースは学校をサボっては通りをうろつき、町の不良たちと喧嘩をし、商店の品物を万引きしたり、酒を飲んだり煙草を吸ったりするなどの少年時代であった。

セント・メアリー少年工業学校

7歳になった頃には既に両親の手には負えなくなり、セント・メアリー少年工業学校英語版という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られた。ルースは12年間セント・メアリーで過ごす。そこで少年たちの教官を務めていたローマ・カトリックのマティアス・バウトラー神父 (Matthias Boutlier) と出逢い、教わった野球がルースの人生に決定的な影響をもたらすことになった。以後、ルースは生涯にわたってマティアスを恩師と仰いだ。

マティアスはルースに勉強や洋服の仕立て方を教え[注 5]、休みの時間には野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えた。ルースはその他に学校の吹奏楽部と演劇部にも所属していた。ルースの自伝によると、マティアスは大変な美男で、外の世界に出ればすぐに俳優として活躍できるのではないかと思えるほど見た目が良かった上に、身長6フィート6インチ(約198cm)、体重250ポンド(約113kg)という堂々たる体格の大男であり、ルースは初めてマティアスと対面した瞬間から、それまでに体験したことのない威圧感と畏敬の念を覚えたという[注 6]。また、マティアスはバットを片手で振るだけで、ボロ布で作った粗末なボールを100m以上も飛ばせるほどの腕力の持ち主であった。

当時、セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20から30人ほどのブラザー(神父)が少年達の教官を務めていたが、その中でもマティアスほど少年達から慕われていた教官は他にいなかったとルースは語っており、実際にマティアスはルースの卒業後にセント・メアリーの校長に昇格している。また、ルースがマティアスを尊敬していたエピソードとして、ルースは歩く時に内股にして足を引きずる癖があったが、マティアスの癖を真似たものであり、その癖は生涯治らなかった。

なお、ルースが23歳のとき、ルースの父は自身が経営していた酒場で客同士の喧嘩に巻き込まれて命を落としている。しかし、ルースは母が亡くなった時には非常に悲しんだが、父とは疎遠であり、父が亡くなったときにはそれほど悲しんだ様子はなかったという[注 8]。酒場で年中働き詰めだった父とは顔を合わせる事も少なく、7歳のときからセント・メアリーで実の父よりも長い期間をマティアスと共に過ごしたルースにとっては、マティアスこそが「育ての父」であった。

プロ入り

1913年、野球部のエースとして君臨していたルースの活躍は、偶然試合を見に来ていたジョー・エンジェルの目に留まる。ワシントン・セネターズの投手であったエンジェルは、すぐさまボルチモア・オリオールズ英語版[注 9]のオーナー兼監督のジャック・ダン英語版にルースを紹介した。その場でルースの練習風景を30分ほど見たダンは、即座に年給600ドル(現在の金銭価値に換算すると約6万6000ドル)の契約を結ぶ。1914年2月14日、ルースが19歳の時だった。ルースは「もともと仕立て屋として就職する予定であり、手先が大事な仕事だから、(手を痛めることが大いにあり得る)野球はもう辞めようと決意していただけに、感無量のうれしさがあった」と語っている。

外部から隔離された全寮制の矯正学校での生活が長かったためか、世間知らずで子供じみたところのあったルースは、早速チームメイトたちから「ジャック(・ダン)の新しいベーブ(赤ちゃん)」と揶揄されるようになる。このときの「ベーブ」というあだ名は、生涯残ることになり、以後は周りから「ベーブ・ルース」と呼ばれるようになった。なお、オリオールズ時代以降のチームメイトは「ベーブ」と呼ぶことを意図的に避け、「ジョージ」「ジッヂ」「バム」などと呼んでいたりした。

1914年7月7日、ダンはルースを他の2名の選手とセットにして、金銭トレードに出す計画を立てていた。相手チームはフィラデルフィア・アスレチックスであった。しかし、ダンが要求していた1万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)という額により、交渉は決裂。オリオールズが業務提携を結んでいたシンシナティ・レッズとも決裂した。

レッドソックス時代

ボストン・レッドソックス時代(1919年)

1914年7月9日にはボストン・レッドソックスのオーナーのジョー・ランニン英語版と交渉を成立させる。契約金の額については諸説あり、不明である。

メジャーリーグデビューとなった1914年、ルースは5試合に出場し、内4試合は投手としてマウンドに登った。デビュー戦となった7月11日には、初登板初勝利を挙げる。当時のレッドソックスはスター選手を多く抱えていたため、登板機会がさほど与えられないままマイナーリーグへ降格された。ルースが「登板できないなら打撃で貢献しよう」とバッティング練習をすれば、自身のバットを折られるなどの嫌がらせにも遭ったというが、ルースはどこからか古いバットを見つけてきてバッティング練習を続けたという[2]。ルースに代打は送られた。ルースの降格先のインターナショナルリーグ所属チームプロビデンス・グレイズは、後の200勝投手カール・メイズも所属しており、見事にリーグ優勝を果たす。シーズン後の1914年10月17日に、ルースはボストンで知り合ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚した。

1915年、シーズン前の春季キャンプにて、レッドソックスの先発ローテーション入りを果たす。同年、ルースは18勝8敗の好成績を記録し、レッドソックスはアメリカンリーグペナント英語版を制した。また、バッティングでもチームに貢献しており、打率.315に加えて本塁打を4本打っている。レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。

1916年、若干春季キャンプで苦しむものの、23勝12敗、防御率1.75、9完封を記録する。防御率と完封数はリーグ1位であり、完封数は1978年にロン・ギドリーが並ぶまでの間、左投手としてはリーグ記録であった。同年6月27日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では自己最多の10奪三振を奪ったり、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝ったりするなど、ルースは投手としての実績を着々と積んでいった。トリス・スピーカークリーブランド・インディアンスへ移籍したが、レッドソックスは投手陣の踏ん張りで再度ワールドシリーズに進出。ブルックリン・ロビンスに対し、ルースは14イニング1失点の成績で、チームは4勝1敗の成績でワールドシリーズ2連覇を果たした。

1917年もルースは大活躍を見せ、24勝13敗、防御率2.01、6完封に打率.325の成績を残す。しかし、チームは100勝を挙げたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、9ゲーム差の2位に終わった。6月23日のワシントン・セネターズ戦でルースは、先頭打者に四球を与えた後、怒りに狂い、審判を殴ってしまう。ルースには10試合の出場停止処分が下された[注 10]。7月11日の試合は、デトロイト・タイガースに対し、1-0の1安打完封勝利を挙げる。ルースは後年、この試合を「現役生活で一番興奮した試合」であったと振り返っている。

1918年は20試合を投げ、13勝7敗、防御率2.22を記録する[注 11]。。また、11本塁打を放って生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得した。長らくメジャー唯一となる「同一年度での10勝かつ10本塁打」であった1918年以降、ルースは主に外野手として起用された。同年は7月に監督と口論になり、一時期チームの帯同から外れていたため、若干成績に落ち込みが見られるシーズンであった。チームはワールドシリーズに出場し、ルースは第1戦と第4戦の先発投手を任された。両試合ともに勝ち星を挙げ、17回を投げて自責点2、防御率は1.06を記録する。ワールドシリーズでの連続無失点イニング数は29.2回を記録し、これはホワイティー・フォードが1961年に破るまでMLB記録であった。この年の右翼席へ打ち返した打球が当時のルールでサヨナラ三塁打と認定されたが、現行ルールではルースは通算715本の本塁打を放っていることになる。

打者としての台頭

1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのは、2年間で44試合であった。1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、「ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる」との提言をしている。

ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。かつてのチームメートであるトリス・スピーカーは、「投手でありながら登板のない日に野手として試合に出るのは馬鹿げたことだ」と話し、この転向がルースの選手生命を縮めるかもしれないと見ていたが、ルース自身は打撃の方に関心が移っていき、本格的に野手に転向することになる。この年、ルースは打率.300、11本塁打という記録を、レギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。

1919年には、130試合に出場するも、わずか17試合しか登板しなかった。同年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。当時、本塁打はシーズンで2桁打てばスラッガーであり、最初期の「飛球をワンバウンドで取ってもアウト」というルールの影響から、本塁打自体の評価も低かった。ルースの29本という本数は当時としては驚異的であり、過去のMLBの本塁打数記録が調べ直され、それまでの最多本塁打記録が1884年のネッド・ウィリアムソン英語版の27本(右翼が約60mなど本拠地が異常に狭かった球場での記録)に修正されるなど、文字通り歴史を塗り替える画期的な出来事であった。ルースの登場により、飛ばないボールのデッドボール時代が終わり、本塁打が連発されるライブボール時代が始まった[3]

タイ・カッブ(右)と(1920年)

ルースの猛打の噂は瞬く間に広がって、プレイを一目見たさに大観衆が詰めかけた。第一次世界大戦終戦による解放感、さらには未曾有の好景気から、大衆は華やかで、派手で、爽快なパフォーマンスをニーズとしており、ルースの打率は需要があった。ルースは食べる量が増え、オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚いたという。1919年には、ルースの肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿から丸々と太った体型へと変化していた。筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、シーズン2桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。ルースのライバルといえる大打者のタイ・カッブも、後年にルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。

また、カッブは、もしルースが最初から野手として起用されていたらもっと本塁打数は伸びていたのではないか、という意見に対し、「ルースは投手だったからあの大振りが許されたんだ。もし野手だったらもっと粘ったり、当てにいく打ち方が求められただろう。大振りして無様な三振をしようものなら、それも奴は若造だったから、大目玉を食らっていただろうよ。だけど奴は投手だったから誰も気にしなかった。だから奴は自分なりの打ち方をいろいろと試すことができて、打者に転向した頃には、確固たるものに仕上がっていたんだよ」と分析している。

ヤンキース時代

1919年12月26日、レッドソックスのオーナーのハリー・フレイジーは、ルースをニューヨーク・ヤンキースへと金銭トレードで放出する。有名な定説によれば、当時劇場を経営していたフレイジーは、「ノー・ノー・ナネット」というブロードウェイ劇の予算を賄うために、ルースを始めとした有力選手を他球団に売却したとされている。この売却には、ルース自身の高騰する年俸も大きく関わっていた。

1919年シーズン終了後、ルースは前年の給料の2倍である2万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)を要求した。これを拒否したフレイジーに対し、ルースは引退をちらつかせるなどの強硬行為に出た。我慢がならなくなったフレイジーは、結局ルースをトレードに出すことにする。当時、ルースのトレードの交渉相手となってくれたのは、シカゴ・ホワイトソックスとヤンキースの2球団のみであった。他の5球団は、フレイジーをレッドソックスの経営陣から追い出そうとしていたリーグ会長のバン・ジョンソンによる差し金により、交渉のテーブルに着いてさえくれなかった。ホワイトソックスはシューレス・ジョー・ジャクソンに加えて6万ドル(現在の金銭価値に換算すると65万ドル)を提示するも、ヤンキースのジェイコブ・ルパートとティリンゴースト・ヒューストン両オーナーは金銭のみで10万ドル(現在の金銭価値に換算すると109万ドル)を提示。12月26日にはヤンキースとの交渉がまとまり、その10日後には正式に発表された。

レッドソックスにとっては、これが長らく言われる「失敗トレード」となり、長くワールドシリーズを勝てないジンクスが生まれ、「バンビーノの呪い」と揶揄される原因となった。

ニューヨーク・ヤンキース時代(1920年)

ヤンキースに移籍後のルースは、投手から打者へと完全に移行していた。ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場したが、投手としてマウンドに上がったのは内5回である。5回とも勝ち投手となっており、登板は元投手であるベーブ・ルースのデモンストレーションファンサービスの意味合いが強かった。

ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、「もうこれ以上の本塁打記録は生まれないだろう。前年が異常だっただけで、あれほどの本塁打数は期待できない。20本も打てれば上出来だろう」と言われながら、ルースは打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させる。同年に記録した長打率.847は、2001年までMLB記録であった。この年にルースが放った54本塁打というのは異常な数値であり、2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な本数だった。また、ルースよりも多く本塁打を打った「チーム」はフィラデルフィア・フィリーズのみ(64本)であった。

ヤンキース第1期黄金期・本塁打記録

1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズで3回優勝した。ルースは1921年、打率.378、59本塁打を記録し、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、ロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ選手生活で更新する。ルースの名前は当時本塁打の同義語として扱われ、野球というスポーツそのものに新しくパワーの概念を導入した。ルースが打った中で一番大きな本塁打は、1921年7月18日にデトロイトネビン・フィールドでの一本といわれている。中堅場外に消えていった打球は、175メートルの特大弾であった。

1921年当時は現在とは多少本塁打に関するルールが異なっていたため、もし現行のルールでルースがシーズンを送っていたら、彼はこの年に104本の本塁打を記録していただろうという研究もある。ビル・ジェンキンソンが2006年に執筆した本 “The Year Babe Ruth Hit 104 Home Runs”(和題:ベーブ・ルースが104本塁打を打った年)によれば、1931年までアメリカンリーグではファウルポールに直撃した打球はエンタイトル二塁打扱いであった。また、フェアゾーンでフェンスを越え、ファウルポールを巻いてファウルゾーンに落ちた打球は、現在では当然のごとく本塁打扱いになるが、当時はファウルであった。これらのデータを全て集計すると、ジェンキンソンによれば、ルースは104本塁打を記録していたことになる。ルースがこの年に記録した総塁打数(457)、長打数(119)、出塁数(379)は、未だに破られていないMLB記録である。

ヤンキースは1921年にワールドシリーズまで進出した際、非常に高い期待を背負っていた。相手チームのニューヨーク・ジャイアンツに対し、最初の2試合は勝利したが、ルースが第2戦で盗塁をした際に肘を故障。結果的にルースは残りの試合を欠場(最終戦のみ代打出場)し、ヤンキースもジャイアンツに敗れた。このワールドシリーズでは、ルースは打率.316、1本塁打、5打点を記録している。

この直後にルースはまた不祥事に巻き込まれることになる。ワールドシリーズ終了後、ルースは地方巡業に参加したのだが、当時はシリーズ出場選手がオフに商業試合に出場する事が禁止されていた。選手が勝手に「ワールドシリーズの再戦」と銘打った試合をオフに組む事により、シリーズ自体の商品価値が下がるのを防ぐのがルールの目的であった。これを受け、当時のコミッショナーのケネソー・ランディスはルースを1922年シーズンの最初の6週間出場停止とした。

1922年にルースは打撃に関する研究のため、コロンビア大学に招かれた。結果、研究者はルースが最も強打できるコースは外角膝上の高さであり、完璧な打撃をした場合のスイングスピードは秒速34メートル(120km/h超)で、ボールの飛距離は140から150メートルにまで達するとわかった。また、異なるサイズの小さな穴に棒を差し込んでいくことで根気を調べる臨床試験では、ルースは500人の被験者中最高位を示した。他にも、ルースの目は暗室で点灯する電球に対して常人よりも20ミリ秒早く反応するなど、いずれも超人的な計測結果を記録した。このことについて、チームメイトのジョー・デュガン英語版は「ルースは普通に生まれたんじゃない。奴は木から落っこちて来たのさ」と表現している。

1922年5月20日に処分が解けたルースは、ヤンキースのキャプテンに就任する。5日後に審判に泥を投げて退場処分を受け、さらには観客と乱闘をするという醜態を晒したために、キャプテンの地位を剥奪された。同年、ルースは110試合に出場し、打率.315、35本塁打、99打点を記録する。この年もヤンキースはワールドシリーズに出場し、再度ニューヨーク・ジャイアンツと戦うが、またもチームは敗退。ジャイアンツの監督ジョン・マグローは、自チームの投手に「ルースにはカーブしか投げるな」と指示し、これが功を奏してルースは17打席でわずか2安打という大不振でシリーズを終えた。

1923年にヤンキースは本拠地を、それまでジャイアンツから間借りしていたポロ・グラウンズから、ヤンキー・スタジアムへと移転する。「ルースが建てた家」と呼ばれたこの球場が開場した試合で、第1号本塁打を飾ったのはルースであった。この試合で使われたバットは2004年12月2日に126万5000ドルで落札され、最も高価で落札された野球バットとしてギネス世界記録に認定された[4]。1923年シーズンにルースは自己最高打率.393、41本塁打を記録。この年も3年連続でワールドシリーズの組み合わせがヤンキース対ジャイアンツになり、ルースは打率.368、3本塁打に長打率1.000を記録した。ヤンキースはチーム史上初のワールドチャンピオンに輝いた。

(左から)ジョージ・シスラー、ベーブ・ルース、タイ・カッブ(1924年)

ルースは1924年三冠王級の活躍を見せる。打率.378で自身唯一の首位打者に輝くと、両リーグ1位の46本塁打を記録。121打点はグース・ゴスリンの129にわずかに届かない2位であった。この年、ヤンキースはワシントン・セネターズに2ゲーム差でリーグ2位に終わった。

好成績を残してきたルースではあったが、1925年にはプロ入り後初めての挫折に見舞われる。試合前にホットドッグソーダ水を飲み続けるなどの不摂生、性病、そしてアルコール過多などにより、高熱腹痛に悩まされるようになった。正確な病因は現在でも不明ではあるが、この年のルースはヤンキースでの選手生活の中で最低のシーズン(打率.290、25本塁打)を送る。ヤンキースも69勝85敗と大きく負け越した。

1926年は一念発起して、それまでの不摂生な生活を改め、練習に打ち込み、打率.372、47本塁打、146打点と成績を回復させた。ヤンキースはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズへと駒を進めるが、ロジャース・ホーンスビー擁するセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れた。ルース自身は第4戦に3本の本塁打を放つなど、バットでは貢献するものの、走塁ミスを犯す。2-3とヤンキースが1点差を追っていた第7戦、9回裏二死で一塁走者だったルースは果敢に二塁盗塁を狙うも、呆気なく刺されてしまい、チームは敗退。これはワールドシリーズ史上唯一、シリーズが盗塁死で終わった事例となっている。なお、この1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年ジョニー・シルベスター英語版に本塁打を打つことを約束し、実際に約束を果たしている。

1927年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線英語版」と呼ばれていた。チームはリーグ記録となる110勝を達成し[注 12]、19ゲーム差でリーグ制覇。ワールドシリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事な形でシーズンを終えた。

シーズン中、チームの順位は早々と決してしまっていたので、国民全体の期待はルースが何本の本塁打を打つのか、というところに注がれた。それまでの記録はルース自身が持つ59本であったが、それを超えるには幾つもの高いハードルがあった。年間59本を達成した1921年当時と比べて、相手投手はまともにルースと勝負しなくなっており、ルース自身も長年の不摂生から来る故障などを抱えていた。だが、60号を達成するにはプラスの要素もあった。強力な打線ゆえに打席がたくさん回ってくること、そして、チームメイトであり、ルース自ら打撃を指導するなどしていたルー・ゲーリッグの台頭である。実際、シーズンの途中まではゲーリッグはルースの本塁打数を上回るなど活躍。9月の1か月間でルースが17本塁打を放つなどして追い抜いて、9月30日には60号を達成するが[注 13]、後年ルースは、ゲーリッグの存在が大きく、彼がいたから相手投手もルースと勝負せざるを得なくなっていたと述べている。この年は、151試合の出場で、60本塁打に加えて、打率.356、164打点、長打率.772を記録。実に4度目となる本塁打記録更新であった。

1928年もヤンキースにとっては良いスタートとなり、7月の時点で2位のチームを13ゲーム差で突き放すことに成功していたが、けが人の増加に投手陣の崩壊なども重なり、チーム成績は停滞。その間、フィラデルフィア・アスレチックスが快進撃を遂げ、9月に1位になった。しかし、同月の直接対決4連戦でヤンキースが3勝し、首位の座を再び奪還。ルースの成績もチームのパフォーマンスと比例していた。自身もチーム同様、ロケットスタートに成功し、8月1日の時点では42本塁打を放っていた。前年の60本ペースをさらに上回る。ところが、シーズン後半にの痛みに悩まされ、最後の2カ月では12本しか本塁打を打つことができなかった。それでも最終的にシーズン54本塁打の記録を残し、自身4度目の50本塁打を達成することとなった。

1928年のワールドシリーズは、1926年の再戦となった。対戦相手のカージナルスはホーンスビーがトレードで退団していた以外は2年前のチームと変わっていなかった。このシリーズでは、ルースが第4戦で再度3本の本塁打を放つなど、打率.625(ワールドシリーズ史上2位の記録)、3本塁打、3二塁打、OPS2.022を記録[6]。さらにゲーリッグも打率.545を記録し、ヤンキースはカージナルス相手に3連勝する。ヤンキースはワールドシリーズでの4連勝(スウィープ)を2年連続で達成した初のチームとなった。

予告ホームラン・極東遠征・移籍

アル・スミス元ニューヨーク州知事とフロリダ保養地にて(1930年)

1929年には、ヤンキースは4年振りにワールドシリーズ進出を逃した。一方でルースは1929年から1931年にかけて3年連続で本塁打王のタイトルを獲得した。1930年シーズンの途中には、1921年以来初めて[注 14]マウンドに上がり、完投勝利を挙げている。また、同年にヤンキースは日常的に背番号制を導入した初めての球団となった。当時の背番号は打順を表し、ルースは日頃から3番打者を務めていたため、「3」が与えられた。

1932年には、ヤンキースはジョー・マッカーシー監督の下で、107勝47敗とリーグ優勝を成し遂げ、ルースも打率.341、41本塁打、137打点を記録。ワールドシリーズではギャビー・ハートネット率いるシカゴ・カブスと対戦し、4連勝でカブスを下した。

このシリーズの第3戦で、ルースは球史に残る有名な「予告ホームラン」を放つ。打席に立ったルースは外野フェンスを指差し、打った球はバックスクリーン一直線の本塁打となった。37歳になっていたルースだが、ボールは490フィート (150 m)は飛んだのではないかといわれている。長年にわたって論争の的となってきたのは、本当にルースはスタンドを指差したのか? という疑問である。対戦相手のカブスの投手チャーリー・ルートは、ルースの予告ホームランを真っ向から否定しており、3球目の投球モーションに移る前に「この野郎、俺を三振させるには、もう1つストライクを投げなければダメなんだぞ」と怒鳴って人差し指を突き出してきた。その後にたまたま、中堅のスタンドに飛び込んだので、あんな話が出来上がってしまったのだと述べている[5]。しかしながら、ルートには投球時にわずかに振り向くという癖があり、他の出場選手は、ルートは単にルースの動作を見逃しただけではないかと証言した。本塁打に関する公式のフィルムはない。スタンドで観戦していた観客の撮影した家庭用フィルムを見ても、真偽は不明である。ただし投手方向に向かって指をさしている姿は確認できる。この予告本塁打について、ルースは自伝の中で、「ブラッシュボールが来て頭にきていたのでよく覚えていないが、スタンドを指差すのはこのとき以外にも時々やって実際に本塁打を打った」と記している。なお、この本塁打はルースがワールドシリーズで放った最後の安打となった。

1933年にもルースは、打率.301、34本塁打、103打点の好成績を残し、リーグ最多の114四球を記録。この年、初めてのオールスターゲームシカゴコミスキー・パークにて開催され、ルースはオールスター史上第1号となる本塁打を飾る。このときに打った2点本塁打により、アメリカンリーグはナショナルリーグを4-2で下した。

1933年シーズン終盤には投手として1試合だけマウンドに上がり、完投勝利を挙げる。これが投手としての最後の登板となった。ヤンキース時代における投手としての出場は5試合であり、主にファンサービスのためではあったが、そのすべてで勝ち投手となっている。ルースは通算成績で投手として94勝46敗という記録を残している。

1934年、打率.288、22本塁打を記録し、2年連続でオールスターに選出される。オールスターゲームではカール・ハッベルが5連続奪三振を成し遂げ、ルースは不名誉にもその一人目の打者であった。1934年シーズンはルースがヤンキースの一員としてプレイした最後の一年であったが、ヤンキー・スタジアムでの最終戦では、たったの2000人しか観客がいなかった。ルースはこの時点で、個人的な目標だった700本塁打を達成しており、いつでも引退する用意はできていた。

この後、ルースはメジャーリーグ選抜軍の一員として極東遠征に出る。22試合のうち、ほとんどは日本開催であった。選抜軍にはルースのほかにも、ゲーリッグ、ジミー・フォックスレフティ・ゴメスアール・アベリルチャーリー・ゲーリンジャーなどが参加していた。野球は既に日本でも人気を博しており、ルースも各地で歓迎を受けた。この極東遠征は日本における野球人気の形成に大きく寄与したと考えられており、1936年には日本初のプロ野球リーグが設立された。

この頃になると、ルースは自身の選手としての終わりが近づいていると悟っていた。既に心はヤンキースの監督になることに決めており、マッカーシー監督の後任になる希望を隠しきれずにいた。しかし、オーナーのルパートはマッカーシーを辞めさせる気はなく、逆にルースとマッカーシーとの間に大きな軋轢を残した。

ルパートはルースに、ヤンキース傘下のマイナーリーグチームのニューアーク・ベアーズ英語版[注 15]の監督にならないか、というオファーを出し、ヤンキースの監督になるならマイナーで監督経験を積んでくるように言った。その場合はマイナーの指揮をとるため、選手としては引退しなければならなかったが、ちょうど引退を考えていたルースは検討することにした。しかし、ルースの妻であったクレア・メリット・ルースと彼のマネージャーはオファーを蹴るように、とのアドバイスを出す。そのため、選手としてもう1年ヤンキースでプレイするつもりでいたが、ヤンキースの年俸提示はわずか1ドル。これを受けてヤンキースを退団することを決めた。

ルースを雇うと考えていたチームはフィラデルフィア・アスレチックスとデトロイト・タイガースの2チームのみであった。アスレチックスのオーナー兼監督のコニー・マックは、ルースのために監督の座を降りる事を検討していたが、後にルースが監督になれば実質的な覇権を握るのは彼の妻になると考え、撤回した。同時期にはタイガースも撤回し、ルパートは真剣にルースの引き取り手を探すことになる。

ブレーブス時代

ボストン・ブレーブスのオーナーのエミル・フックス英語版がルースを引き取った。ブレーブスはそれなりのチームとして結果を残していたが、フックスは負債に悩んでおり、本拠地ブレーブス・フィールドの賃料を支払えない状態であった。当時集客力があったルースはちょうどよい補強だった。

電話と文書と会議を重ね、ヤンキースはようやく1935年2月26日にルースをブレーブスにトレードした。ルースは選手としてだけではなく、チームの副代表として選手の獲得や人事に関する権限を握る事になる。また、ブレーブスのビル・マケシュニー監督に仕える助監督にも就任した。さらにフックスは、ルースに球団の利益の分け前を与えると同時に、副社長への就任の可能性や、さらには早くて1936年シーズンから監督就任の可能性も伝えていた。

メディアの注目の中で、ルースは本拠地としてのボストンに16年ぶりに帰ってきた。ニューヨーク・ジャイアンツとの開幕戦には2万5000人の大観衆が集まり、4-2でブレーブスが勝利。ルースは全得点に絡む大活躍を見せた。ボストンはレッドソックスの牙城であったが、ルースの存在により、ブレーブスにボストン市民の注目が集まりつつあった。

しかし、それ以降はチームが低迷。5月20日の時点で7勝17敗と、ほとんどシーズンは既に終わったも同然であった。ルースはシーズン序盤は多少打ってはいたものの、怪我と不摂生のため、守備と走塁の衰えは著しく、ベースをノロノロ歩き回るのが限界であった。フックスに契約前に「空いている外野に入ってもいい」と言われていたが、守備の衰えはあまりにもひどく、ブレーブスの投手陣は「ルースがラインアップにいる以上、マウンドに上がることはできない」とボイコット寸前の姿勢を見せていた。マケシュニー監督もチーム運営に際してルースの助言を受け入れることはほとんどなく、助監督と副代表としての役職は名ばかりであったということにルースは激怒。フックスがルースにしていた「球団の利益の分け前を与える」という約束も嘘であった。それだけではなく、フックスはルースにチームに資金を投じることさえ望んでいた。

5月25日にピッツバーグフォーブス・フィールドで行なわれたパイレーツ戦で、ルースは4打数4安打、3本塁打、6打点を記録するも、チームは7-11で敗戦。現役最後の本塁打となった一本は、フォーブス・フィールドの場外に消える特大アーチとなった。その5日後の5月30日、ルースはフィラデルフィアで行われたフィリーズ戦に臨む。初回表に三振した後、その裏の守備の際に膝を痛めてそのまま途中交代となった。これがルースの現役最後の姿となった。

そして2日後の6月1日、ジャイアンツとの試合が終わった後、ルースは新聞記者をロッカールームに集めて現役引退を表明した。本当はルースは5月12日の時点で引退したがっていたが、フックスが「まだすべてのナショナルリーグの球場でプレイしていないじゃないか」とルースを説得していたため、この日になった。最後となった1935年シーズンのルースの成績は、打率.181、6本塁打という現役最低の成績だが、72打数で本塁打6本という数字を残している。チームは38勝115敗で終わり、この成績はMLB史上3番目に悪い記録である。このシーズンをルース本人は「消してしまいたい1年」と語っている。シーズンオフにはコーチ監督としてのオファーを待っていたが、結局どこからもなく、ルースは「もしも『君が必要だ』と言われていたら、どこへでも喜んで行った」と振り返っている。

引退後

現役を引退した翌1936年、アメリカ野球殿堂の最初期メンバー5名のうちの1人に選ばれる。その2年後の1938年、ブルックリン・ドジャースゼネラルマネージャーだったラリー・マクフェイルのオファーを受け、ドジャースの一塁コーチに就任する。打撃の指導などのほかに、若い選手にファンへのサービスが悪いと注意していた。1年で辞任。MLBにおけるルースの最後の仕事となった。

第二次世界大戦中の1943年、ヤンキー・スタジアムで行われたチャリティー試合で、ルースは代打として登場し、四球を選ぶ。1947年には、退役軍人の会であるアメリカ在郷軍人会英語版の少年野球プログラム担当に就任した。

晩年

ルースのヤンキース在籍時の背番号「3」。1948年、ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に指定。

1946年、ルースは左目に強い痛みを感じるようになった。同年11月にニューヨークのフランス病院英語版を訪れた際、首に腫瘍があるのが発見される。腫瘍は悪性であり、左内頸動脈を取り囲んでしまっていた。放射線療法による治療を受けるものの、1947年2月に退院する頃には36kgも体重が落ちていた。ルースは激しい頭痛嗄声に見舞われていたが、化学療法 (悪性腫瘍)でテロプテリン(Teropterin)と呼ばれる新薬が投与され、一時的に症状は緩和する。頭痛は回復し、体重も9キロ戻った。現在では、ルースの病名は鼻咽頭癌英語版の一種であったことが分かっている。

1947年4月27日、古巣ヤンキースはヤンキー・スタジアムにて「ベーブ・ルース・デー」を開催した。健康だとし、ルースは6万人を超える観客の前でスピーチをした。ゲーリッグの「私は世界一幸運な男です」という有名なスピーチのように特別な名言があったわけではないが、ルースは心を込め、野球と次世代を担う子供たちに向けて愛情を込めて話した。後にルースはベーブ・ルース財団を設立し、恵まれない子供達へのチャリティー活動を行う。このチャリティーの募金活動のため、1947年9月にヤンキー・スタジアムにてベーブ・ルース・デーが再度開催された。

1948年6月13日、永久欠番表彰式のルース。この写真はピューリッツァー賞を受賞した。

1948年6月13日には、ヤンキー・スタジアム開場25周年記念のイベントに参加し、この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号『3』が永久欠番に指定された。ルースは存命中の1923年当時のヤンキースのメンバーとのしばしの再会を楽しんだ。ルースはを使うほど衰えていた。このとき、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン英語版紙のカメラマン、ナット・ファイン英語版が撮影した、セレモニーでのルースの写真 “The Babe Bows Out” は、野球史上最も有名な写真の一つとなり、この写真でファインは1949年度のピューリッツァー賞を受賞している。

ヤンキー・スタジアムでの同イベントに参列した後、再び入院生活を送る。ルースはハリー・トルーマン大統領(当時)からの電話を含め、3万通もの見舞いの手紙を受け取った。大半はルースが愛してやまなかった子供たちからのもので、それらの処理を手伝ったのが、クレア夫人である。

死去

今でも献花が絶えないルースの墓

1948年7月26日、ルースは自伝映画『ベーブ・ルース物語英語版』の試写会に参列する。これが、ルースが公式の場に現れた最後の姿となった。直後入院生活に戻ったが、既にほとんど喋れないほどに衰弱していた。外には記者やカメラマンが殺到し、数人の者しか面会できないようになっていた。許されたうちの一人であった当時のナショナルリーグ会長フォード・フリックによれば、「ルースは信じられないくらい細くなっていた。彼は大男であったのにもかかわらず、腕はほとんど骨と皮のみになっており、顔も痩せこけていた」と証言している。

1948年8月16日、ルースはがんのため、ニューヨーク市内の病院で死去した(満53歳没)。検死によれば、ルースの死因となったガン細胞は鼻と口から発生しており、それらが急速に体全体へと拡がっていったことが示されている。

遺体はヤンキー・スタジアムに2日間安置され、ルースに別れを告げるべくスタジアムを訪れた一般人は2日間でおよそ15万人を数え、ほぼ半数は子供だったといわれる。安置後、遺体はニューヨークのセント・パトリック大聖堂に移されて葬儀が行われた後、ニューヨーク郊外のホーソーン英語版にあるゲート・オブ・ヘブン墓地英語版に埋葬された。同所にあるルースの墓への献花は今も絶えない。

ルース死後の翌1949年、ワールドシリーズで最も顕著な活躍をした選手に贈られるベーブ・ルース賞が制定された。

人物

家庭生活

ルースは1914年にヘレン・ウッドフォードと結婚するも、ヘレンはルースが浸る華やかな生活が好きになれず、1926年あたりから別居生活を送っていた。1929年1月11日の火災によりヘレンは焼死。ルースは「彼女には可哀想なことをしてしまった。私が悪かった」と死を悲しんでいた。

ルースには二人の娘、ドロシー英語版とジュリアがいたが、二人とも養女であった。ドロシーはルースとヘレンとの養女であったが、後年その著書『わが父、ベーブ』の中で、自らをルースのガールフレンドであったジュアニータ・ジェニングスの実子であると主張している。ジュリアは、ルースが再婚した妻で、女優・モデルのクレア・メリット・ホジソンの連れ子である。ジュリアは現在[いつ?]アリゾナ州に住んでおり、2008年9月21日に行われたヤンキー・スタジアムの最終戦にて始球式の役を務めている。

ルースとクレアはオフシーズンをフロリダ州で過ごし、ゴルフなどを楽しんでいた。引退後、ルースはセントピーターズバーグから程近いフロリダ州トレジャーアイランド英語版に別荘を購入し、冬場はそこで過ごしていた。

出演

1930年代から1940年代にかけては頻繁にラジオ番組に出演しており、自身の番組を持ってもいた。1934年4月16日から7月13日にかけては、週3回『ベーブ・ルースの冒険』という15分番組が放送され、その3年後の1937年4月14日から7月9日にかけてはCBSで週2回『ベーブ・ルースは俺だ』が放送された。その他にもNBCなどでレギュラー番組を持っていた。

ルースが映画に初出演したのは『Headin' Home』という無声映画であった。また、1928年のハロルド・ロイドの映画『ロイドのスピーディー英語版』など、幾つもの無声時代の映画に出演しており、そのどれもが、大体は野球選手役もしくは本人役であった。その中の一つに、ゲーリッグの死後に作られた映画『打撃王』がある。ルースの声はクラーク・ゲーブルの声に似ていたとされている。

2022年8月9日に大谷翔平が10勝かつ25本塁打を達成、記録が更新された[7]。2024年の住友ゴム工業「DUNLOP」の日本のCMで本人に似せた映像が声優の音声付きで大谷と映された。

子供好きのルース

ベーブ・ルース(1920年)

ルースは私生活でも派手好きで粗暴な性格ではあったが、その反面、子供が大好きで、ファンサービスに熱心だったことでも知られている。ルースの打ったファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、あとでその子犬を見舞いに行ったことがあった。

ジョニー・シルベスター英語版という野球好きの少年が落馬して瀕死の状態となり、両親はジョニーが好きだったルースに励ましてもらおうと、無理を承知でヤンキースに連絡を取った。するとワールドシリーズの最中に、ヤンキースのメンバーのサインボールと、ルースが「水曜日の試合で君のために本塁打を打つ」と書いたボールが送られて来た。そしてルースは実際にその試合で3本塁打を放った。このエピソードは「約束のホームラン」かそれに類するタイトルで、ほぼすべてのルースの伝記で取り上げられている。映画では直接会いに行ったことになっているが、それは史実とは異なる。もっとも、翌年のシーズン終盤にジョニー少年の叔父と名乗る老紳士が、その後のジョニーが順調に回復していることを報告して礼を述べた際に、ルースは「それは良かった」と喜んでみせたものの、紳士が帰った後にそばにいたチームメイトに「ジョニー・シルベスターって、聞いたことのある名前だけど誰だい?」と尋ね、呆れたチームメイトが「君が去年見舞って約束の本塁打を打った少年じゃないか。」と教えると、「そういや、そんなこともあったっけな。」と平然としていたという話が残っている[注 16]。その後、ジョニーとルースが再会したのは、ルースが晩年に病気のために入院していたときで、かつての病弱な少年はたくましく成長し、海軍に入隊するまでになっていた[注 17]

ルースが子供たちに優しかったのは、貧しい下町の不良少年だった彼自身の生い立ちと深い関係があり、彼はファンの子供たちを幼い頃の自分と重ねて見ていたといわれる。実際、ルース見たさにヤンキー・スタジアムへ来るものの、お金がなくて入場券を買うことができず、外に立ち尽くしている貧しい子供たちの姿を見て、ルースは彼らを気の毒に思い、係員に札束を渡して、「これであの子たちに入場券を買ってやれ」と促したこともあった。また、友人と共にゴルフ場に行ったときには、入口付近でルースを見つめる2、3人の子供の姿を見て、「君らも来いよ。今日はいいプレイができそうだぞ」と誘い、子供たちと談笑しながらラウンドを回り、休憩時にはお菓子とジュースを振る舞ったという。

ルースはいかなる有名人に対しても頭を下げず、むしろ挑戦的・尊大な態度を示していたが、子供たちの話題には弱かった。ルースが暴飲暴食、不規則な生活で練習を怠け、成績不振の状態が続いていた1922年の11月、そんなルースを励ますパーティーの席上で一人の議員(後にニューヨーク市長になったジミー・ウォーカー)から「国中の子供たちがラジオに耳を押し付けて、君を英雄のように思いながら君のプレイを楽しみにしているんだ。その英雄がこんな体たらくで、子供たちを失望させていいのか」と詰問されたときには、ルースは涙を流して反省し、それまでの生活態度を改めて再び練習に打ち込むようになったという[10]

後世の評価

ベーブ・ルースとジョー・ジャクソン(1920年)

引退時までの通算本塁打714本は、当時においては彼に続く記録が、かつての同僚ルー・ゲーリッグや、そのライバルとされたジミー・フォックスの約350本であったことからも[注 18]、その圧倒的な存在感がうかがい知ることができる。ルースが今日に至る大リーグ観の形成に果たした影響は極めて大きい。

通算本塁打714本は不滅の記録と讃えられたが、のちにハンク・アーロンバリー・ボンズの両名に破られた。しかし、通算長打率.690と通算OPS1.164は現在も破られていない世界記録である。また、シーズン本塁打60本というのは当時の記録であり、試合数の都合上、量産ペースとしてみると、記録を破ったロジャー・マリスよりも早い。さらに、その後もマリスの記録を破った選手に薬物疑惑が絶えない点や、ルースの現役時代に使われていた球場のサイズは現在の球場よりも大きく、本塁打を出しにくい環境であった点を考慮すると、ルースの記録は今でも決して価値が下がってはいない伝説的な記録といえる。現在[いつ?]、薬物汚染によってMLBの本塁打に対する疑惑が深まる反面、ルースの純粋な力によって生み出された本塁打記録は改めて評価されている。また、通算本塁打数のうち10本がランニング本塁打で、1試合3本塁打はレギュラーシーズンでは生涯で2度しかなく、現役最後の本塁打が出た試合で2度目の1試合3本塁打を記録しており、ワールドシリーズでは1試合3本塁打を2度記録している。

現在[いつ?]ボルチモア・ダウンタウン英語版のエモリープレイス216(カムデン・ヤードの北西2ブロックのところ)にベーブ・ルース記念館があり、生前のルースの遺品や資料が保管されている。

九十三回目の誕生日に当たる日に、ルースが生まれた家にファンが集まる感謝祭が開かれた。小さい家ではあったが、中はファンで一杯だったという。

逸話

帝国ホテル滞在中に日本の野球少年と交流するベーブ・ルース(1934年)

人物

ルースは自分の生年月日を1894年2月7日だと信じており、1934年にパスポートを申請した際に出生証明書で1895年2月6日とされていることを知った後も、それを無視して2月7日を誕生日として祝い続けた[11]

左利きであったが、文字を書くときは右利きであった。

プレーヤーにかけられて回っている78回転/分のレコードのタイトルを読めるほど、優れた動体視力の持ち主であった。

セント・メアリーに入れられた当初、学校へ行っていなかったため読み書きができなかったが、実家が酒場で物心ついた頃から店のメニューの文字を毎日見ていたため、食べ物の名前だけは読むことができた。それを知ったマシアスから「君も毎日欠かさず努力を続けていれば、何でもできるようになる」と励まされたルースは、真面目に勉強に取り組むようになり、翌年には習字で賞をもらうまでになった。

もともと仕立屋を目指していたため、ミシンの腕前は確かで、プロ入り後もユニフォームの修繕は自分でやっており、時にはチームメイトたちのユニフォームの修繕を買って出ることもあった。ルースはことあるごとに、「俺に1時間くれれば、シャツを4枚縫い上げてみせる」と得意げに語っていた。セント・メアリー校でボルチモア・オリオールズからのスカウトを受けたときには、「自分は仕立屋になる予定だから、もう野球をしている暇はない」と言って、最初はスカウトを断ったという逸話がある。セント・メアリー校はラジオ新聞もない[注 19]外部から隔離された環境であり、まして7歳から同校に入っていた当時のルースは野球にプロチームがあることさえ知らなかったのである。そこで、ダン監督が慌てて、「給料は年間600ドル(現在だと約6万6000ドル)出そう」と言うと、ルースは「好きな野球をして、そんなにお金がもらえるのか」と大変驚き、今度はすぐに契約に応じたという。

セント・メアリーを卒業して都会に出たルースは、生まれて初めてエレベーターに乗ってこれを面白がり、係の者にお金を渡して自分で操作をさせてもらった。しかし、当時のエレベーターのドアは現在と違って格子戸であり、ルースはドアの隙間から首を外に出してとの間に挟まれそうになり、周りの人々から「首を出すな!挟まれるぞ!」と言われなければ危うく命を落とすところだったという。こうした世間知らずで子供っぽい行動も、ルースが「ベーブ(赤ちゃん)」とあだ名された由縁であった。

少年時代、赤い自転車が欲しくてたまらず、プロ入りして初めての給料で購入した。既に成人で、自動車を購入していてもおかしくない年齢だったにもかかわらず(事実、他のチームメイトたちは自動車を購入)、あえて自転車を買って得意げに乗り回していたことで、「やはりベーブ(赤ちゃん)だ」と周囲から笑われていたが、本人は全く意に介さず得意気に自転車を乗り回し、「当時のニューヨークで、自分ほど得意だった人間はいなかったろう」と述懐している[12]。その後、ルースは何台もの高級車を買ったが、自転車を手にしたときほどの嬉しさはなかったという。

妻と友人を乗せて郊外に車の運転をした時は、荒いハンドルさばきから窪地にタイヤを取られて横転し、幸い全員無事だったものの、車は大破した。ニューヨーク市内を運転していた際は、スピード違反で「ルース死亡か?」と記事にされるほどの物損事故を起こした。それにより、試合直前にもかかわらず、警察に身柄を拘束され、試合出場が危ぶまれたが、署内で「今、俺をここに置いておくということは、また違反しろと言ってるようなもんだ」と警察官に言ったという(その後、釈放され、練習には遅刻したものの、試合には間に合った)。

ある新聞記者[誰?]がルースの華やかな夜の生活を取材しようと、ルースのルームメイトに夜のホテルでのルースの様子を聞いたところ、そのルームメイトは「俺にはルースのことは分からないよ。だって俺は、彼じゃなくて彼のスーツケースのルームメイトなんだから」と答えた。ルースは夜通しで街を飛び回っていたということである。

若手の頃は記者への対応が悪く、印象の悪さから、いつも悪評ばかり書かれていた。そこで記者に「なぜ、俺のことを悪くばかり書くんだ?」と尋ねると、「君の私たちへの態度が悪いからだ」と記者は答えた。それを聞いたルースは「すまなかった」と謝罪し、記者への対応が良くなり、記者たちも好意的な記事を書くようになったという。また、肘に大きなできもののようなもの(腫瘍に近い)ができたため、手術で摘出するなど治療で練習を休んでいる期間、「ルースは練習をサボっている」と新聞などで取り上げられ、記者に詰め寄られたことがある。そのため、ルースは「これを見てもそう言うのかい?」と、摘出手術で陥没した場所のある肘を見せ、記者たちを納得させている。

ヤンキースに移籍してきたばかりの頃、打撃の調子が上がらないルースに、メディアは「ルース、満塁の好機で凡退」など、悪いことばかりを記事にした。そのため、知人に「なぜ、ここの記者は悪いことばかり書くんだ?」と文句を言った。知人は「それは悪いことしか書くことがないからそうなるんだ。活躍すればそれを記事にしてもらえるはずだ」と言われ、再び打ち始めると記事にも活躍したことが載るようになったという。

ルースは、不良少年だった自分を初めて認めてくれた恩師のブラザー・マシアスを生涯にわたって尊敬し、実の父以上に慕っていた。ルースがプロ入りした後も、たびたび問題行動を起こし、チームメイトたちや球団の手に負えなくなると、彼らはこっそり電報を打ってマシアスに来てもらい、ルースを戒めてもらっていたが、ルース自身は、マシアスに会えることが嬉しく、毎回大喜びだったと語っている。それでも、マシアスがルースにとって唯一頭の上がらない人物であったことは確かであり、ルースはマシアスの恩を生涯忘れず、プロ入り後も母校のセント・メアリーをよく訪問して後輩の少年たちを励まし、多額の寄付をしていた。さらに、ルースはマシアスのために高級車を贈っていたが、運転が苦手なマシアスは車をすぐに事故などで壊してしまい、そのたびにルースは快く新しい車を贈っていた。マシアスが亡くなった後、ルースは「自分の人生で最も悲しかった出来事が2つある。1つは母を失ったこと。もう1つはマシアス先生を失ったことだ」と語っていた。

大のビール好きとして知られ、試合前にも当然のようにビールを飲んでいた。現代の栄養学では論外だが、当時は食事とパフォーマンスの関係に議論を呼ぶきっかけとなった。

野球

本格的に野球を教わり始めたときには捕手を気に入り、本格的に守った最初のポジションとなった。ルースは左利きであり、当時から左利きの捕手はほとんど存在しないため、ミットを特注しなければならない状態だった。他のポジションを勧められても「どうしても捕手をしたい」と右利き用のミットを投げる方の左手にはめて、返球の際はミットをはずし、捕った左手で投げていたという。盗塁阻止時には動作が遅れるはずであるが、それでも間に合うほどの強肩であったため、捕手で定着する。投手や一塁や外野も守るようになり、打撃の方では打率にして5割近い数字を残していた。

セント・メアリー時代のある試合で捕手をしていたルースは、味方の投手があまりにも打たれてしまうので、途中からおかしくなって笑いが止まらなくなってしまった。するとマシアスから「そんなにおかしいのなら、君が投手をしてみせろ」と言われ、やむを得ず投手として登板してみると、その試合で好投。次の試合からは投手をすることが多くなった。マシアスは「ルースの態度を戒める目的もあったが、同時に元々ルースに投手の才能を感じていたためでもある」と語っていた。投手のポジションがプロへの道を開くことになった。

投手としてのルースも無失点記録をつくるなど優秀であったが、カーブを投げるときに舌を出す癖があり、自分でその癖に気付くまでは狙われることが多かったという。また、ヤンキース時代は投手として時々登板し、好投している。

タイ・カッブのヒット狙いの打法について、「本塁打ばかり狙ったりしなければ4割打者になれるぞ」と言われたことに対し、ルースは「あんたみたいな打ち方なら、俺なら6割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、本塁打を見に来ているのさ」とコメントしたという。カッブから反論されると、実際に本塁打を量産しつつ、4割近い打率を残して見せ、これにはカッブもルースを認めるコメントを出している。また、この出来事が悔しかったのか、カッブは狙ってマスコミの前で本塁打を放って見せたことがある。

四球ばかりで、投手からまともに勝負してもらえなくなるのを避けるため、新人だったルー・ゲーリッグに目をつけ、打者として指導し、ゲーリッグは強打者に成長。ルースとゲーリッグの二人はリーグでも屈指の3番・4番となった。巷では不仲説もあったが、二人は一緒に釣りに行くなど仲が良く、ゲーリッグが難病の筋萎縮性側索硬化症 (ALS) のために37歳の若さで亡くなったときには、ルースはゲーリッグの死をとても悲しんでいた。

打率が2割そこそこの打者に、ルースは冗談で「君はスイッチヒッターになれば右打席2割、左打席2割で合計4割で4割打者になれる」と言った。すると、その打者[誰?]は冗談を本気にして、実際にスイッチヒッターになって高打率を残したことがあるという。

盗塁は通算122盗塁を記録し、うち本盗を8回成功させた。いずれも打者に専念した1920年以降に記録。ただ盗塁は243回試みて失敗は121回を数え、成功率5割2厘と低く、本盗失敗も7回ある[13]

ドジャースの一塁コーチをしていた際に、若い選手にファンへのサービスが悪いことをよく注意していた。あるとき、若い選手[誰?]が子供にサインをねだられたが、「忙しい」と言ってサインをせずに行ってしまい、子供は落ち込む。それに気がついたルースが選手に注意をしてサインをさせる。さらに「俺はベーブ・ルースだ」と言ってサインをすると言うと、子供はその若い選手の時よりも喜んでいたという話があるなど、引退後でも人気は健在であった。

引退後のルースは、一時期ドジャースの一塁コーチに就任した以外、野球界との大きな関わりがなく、ルースを監督として迎え入れてくれる球団もなかった。ルースは選手としては優秀でも、自分勝手なところがあり、問題行動が多かったため、監督には不向きであると球団の経営陣から判断されたことがその理由であったが、新聞などでも「野球の人気をこれだけ向上させた彼が、その野球界にこんなひどい扱いを受けているのはあんまりではないか?」と報じられるほどであった。ルースはヤンキースの球場に観戦に行くと、自分の守っていたポジションに代わりに就いている選手をよく眺めており、野球界に未練があるようだったという。また、観戦に訪れると、アナウンスでベーブ・ルースということを紹介してもらえ、そのたびに歓声があがり、帽子を取って挨拶をしていた。

日本遠征

日本遠征時のルースと語らう賀陽宮恒憲王(右)・敏子妃(中央)
阪神甲子園球場にある「野球王ベーブ・ルースの碑」レリーフ。日本遠征の史実を後世に伝えるため、ルース没後の1949年、松岡阜により制作された。また同様のレプリカが2005年、ボルチモアの総合スポーツ記念館へ寄贈されている[14]
静岡草薙球場に建てられたベーブ・ルース像

日本球界との関わりで言えば、1934年11月2日から12月1日にかけて、全米選抜チームの一員として訪日し、全日本チームとの間で11月4日の神宮球場での第1戦を皮切りに全国12都市(東京、函館、仙台、富山、横浜、静岡、名古屋、大阪、小倉、京都、大宮、宇都宮)で16試合戦った[15]。航空便による移動が一般的でなかった時代、長い船旅を当初は渋っていたが、鈴木惣太郎が、ルースが散髪屋にいるところへアポなしで訪れ、ルースの似顔絵を大書したポスターを見せて説得したところ、そのポスターを大いに気に入り、訪日を快諾した。日本に向かう船の上でも人一倍練習に打ち込むなど、やる気十分であり、いざ訪日すると、雨天の中、番傘を差して守備練習をするなど、持ち前のショーマンシップを発揮し、日本に野球人気を根付かせるのに大いに一役買った。特に、ルースと直接対戦した沢村栄治の名を今日まで伝説化することになった「全米軍クリーンナップを4連続奪三振」の逸話では、最初に沢村から三振に斬り捨てられている。なお、この試合は秋口に行われ、気温は高くなく、ヒットで出塁した沢村にセーターを着せにいくなどのスポーツマンシップを見せ、「さすが大リーガーはやることが違う」と、観客を感心させた。

試合後、全米選抜チームの訪日歓迎パレードが行われた。このときの日本の人々の歓迎はアメリカでワールドシリーズで優勝したとき以上のものであったため、ルースは大変喜んでいた。訪日の印象を、「何百万人ものファンが心の底から迎えてくれていることを肌で感じている。銀座の通りは何キロにも及ぶ歓迎の列が連なり、英雄のような扱いを受けた」と振り返っている。戦時中には反日感情から日本人にもらった陶器などを割ったが、終戦後にこの歓迎のことを思い出し、後悔していたという。また、真珠湾攻撃が信じられないとも語ったという。

1934年11月16日の小倉到津球場での日米野球は雨が降っていたが大勢のファンがルースを見ようと詰めかけた。全米のコニー・マック監督も「観客が待っている以上、試合をする」と決めると、先頭きってグラウンドに入ったのがルースだったが、その時は番傘を差し、長靴を履いていた。また、試合中も番傘を差したまま守備についた。打撃では、この試合で本塁打を打っている[16]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1914 BOS 5 10 10 1 2 1 0 0 3 2 0 0 0 - 0 - 0 4 - .200 .200 .300 .500
1915 42 103 92 16 29 10 1 4 53 21 0 0 2 - 9 - 0 23 - .315 .376 .576 .952
1916 67 150 136 18 37 5 3 3 57 15 0 - 4 - 10 - 0 23 - .272 .322 .419 .741
1917 52 142 123 14 40 6 3 2 58 12 0 - 7 - 12 - 0 18 - .325 .385 .472 .857
1918 95 380 317 50 95 26 11 11 176 66 6 - 3 - 58 - 2 58 - .300 .411 .555 .966
1919 130 542 432 103 139 34 12 29 284 114 7 - 3 - 101 - 6 58 - .322 .456 .657 1.113
1920 NYY 142 616 457 158 172 36 9 54 388 137 14 14 5 - 150 - 3 80 - .376 .533 .849 1.382
1921 152 693 540 177 204 44 16 59 457 171 17 13 4 - 145 - 4 81 - .378 .512 .846 1.358
1922 110 495 406 94 128 24 8 35 273 99 2 5 4 - 84 - 1 80 - .315 .434 .672 1.106
1923 152 699 522 151 205 45 13 41 399 131 17 21 3 - 170 - 4 93 - .393 .545 .764 1.309
1924 153 681 529 143 200 39 7 46 391 121 9 13 6 - 142 28 4 81 - .378 .513 .739 1.252
1925 98 426 359 61 104 12 2 25 195 66 2 4 6 - 59 1 2 68 - .290 .393 .543 .936
1926 152 652 495 139 184 30 5 47 365 150 11 9 10 - 144 13 3 76 - .372 .516 .737 1.253
1927 151 691 540 158 192 29 8 60 417 164 7 6 14 - 137 3 0 89 - .356 .486 .772 1.258
1928 154 684 536 163 173 29 8 54 380 142 4 5 8 - 137 8 3 87 - .323 .463 .709 1.172
1929 135 587 499 121 172 26 6 46 348 154 5 3 13 - 72 5 3 60 - .345 .430 .697 1.127
1930 145 676 518 150 186 28 9 49 379 153 10 10 21 - 136 8 1 61 - .359 .493 .732 1.225
1931 145 663 534 149 199 31 3 46 374 163 5 4 0 - 128 5 1 51 - .373 .495 .700 1.195
1932 133 589 457 120 156 13 5 41 302 137 2 2 0 - 130 4 2 62 - .341 .489 .661 1.147
1933 137 575 459 97 138 21 3 34 267 103 4 5 0 - 114 3 2 90 - .301 .442 .582 1.024
1934 125 471 365 78 105 17 4 22 196 84 1 3 0 - 104 1 2 63 - .288 .448 .537 .985
1935 BSN 28 92 72 13 13 0 0 6 31 12 0 - 0 - 20 0 0 24 2 .181 .359 .431 .790
MLB:22年 2503 10617 8398 2174 2873 506 136 714 5793 2217 123 117 113 - 2062 79 43 1330 2 .342 .474 .690 1.164
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1914 BOS 4 3 1 0 -- 2 1 0 -- .667 100 23.0 21 1 7 0 0 3 0 0 12 10 3.91 1.22
1915 32 28 16 1 -- 18 8 0 -- .692 895 217.2 166 3 85 1 6 112 9 1 80 59 2.44 1.15
1916 44 41 23 9 -- 23 12 1 -- .657 1300 323.2 230 0 118 1 8 170 3 1 83 63 1.75 1.08
1917 41 38 35 6 -- 24 13 2 -- .649 1313 326.1 244 2 108 0 11 128 5 0 93 73 2.01 1.08
1918 20 19 18 1 -- 13 7 0 -- .650 660 166.1 125 1 49 1 2 40 3 1 51 41 2.22 1.05
1919 17 15 12 0 -- 9 5 1 -- .643 591 133.1 148 2 58 1 2 30 5 1 59 44 2.97 1.55
1920 NYY 1 1 0 0 -- 1 0 0 -- 1.000 17 4.0 3 0 2 0 0 0 0 0 4 2 4.50 1.25
1921 2 1 0 0 -- 2 0 0 -- 1.000 49 9.0 14 1 9 0 0 2 0 0 10 9 9.00 2.56
1930 1 1 1 0 -- 1 0 0 -- 1.000 39 9.0 11 0 2 0 0 3 0 0 3 3 3.00 1.44
1933 1 1 1 0 -- 1 0 0 -- 1.000 42 9.0 12 0 3 0 0 0 0 0 5 5 5.00 1.67
MLB:10年 163 148 107 17 -- 94 46 4 -- .671 5006 1221.1 974 10 441 4 29 488 25 4 400 309 2.28 1.16
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

投手守備


投手(P)












1914 BOS 4 0 7 0 0 1.000
1915 32 17 63 2 3 .976
1916 44 24 83 3 6 .973
1917 41 19 101 2 4 .984
1918 20 19 58 6 4 .928
1919 17 13 35 2 1 .960
1920 NYY 1 1 0 0 0 1.000
1921 2 1 2 0 0 1.000
1930 1 0 4 0 2 1.000
1933 1 1 1 0 0 1.000
MLB 163 95 354 15 20 .968
内野守備


一塁(1B)












1918 BOS 13 130 6 5 9 .965
1919 5 35 4 1 5 .975
1920 NYY 2 10 0 1 1 .909
1921 2 8 0 0 0 1.000
1922 1 0 0 0 0 ----
1923 4 41 1 1 2 .977
1926 2 10 0 0 2 1.000
1931 1 5 0 0 0 1.000
1932 1 3 0 0 0 1.000
1933 1 6 0 1 0 .857
MLB 32 248 11 9 19 .966
外野守備


左翼(LF) 中堅(CF) 右翼(RF)




































1918 BOS 47 57 4 6 3 .910 12 20 0 1 0 .952 -
1919 110 148 13 1 4 .994 1 0 0 0 0 ---- -
1920 NYY 32 57 1 4 1 .935 25 46 1 6 0 .887 84 140 20 9 2 .947
1921 132 271 15 9 4 .969 21 67 2 4 1 .945 -
1922 71 145 6 5 1 .968 - 39 74 7 5 0 .942
1923 67 167 7 3 1 .983 7 20 0 0 0 1.000 73 165 12 8 1 .957
1924 50 99 3 3 0 .971 9 5 2 1 0 .875 100 215 13 10 4 .958
1925 33 57 1 2 0 .967 - 66 131 11 4 3 .973
1926 82 161 6 3 3 .982 - 68 133 4 4 2 .972
1927 56 131 3 3 1 .978 - 94 194 10 10 3 .953
1928 55 80 0 3 0 .964 - 99 201 7 6 0 .972
1929 55 102 2 2 1 .981 - 77 125 2 2 1 .984
1930 53 96 2 4 0 .961 - 91 170 6 6 0 .967
1931 51 88 1 2 0 .978 - 91 139 4 5 2 .966
1932 44 57 2 3 0 .952 - 87 141 8 6 1 .961
1933 54 75 3 4 3 .951 - 78 135 6 3 1 .979
1934 33 44 0 2 0 .957 - 77 132 3 6 0 .957
1935 BSN 22 23 1 2 0 .923 - 4 5 0 0 0 1.000
MLB 1047 1858 70 61 22 .969 75 158 5 12 1 .931 1128 2100 113 84 20 .963
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

アメリカ野球殿堂に置かれたルースの銘刻板
  • シーズン9完封(1916年):ロン・ギドリーと並ぶア・リーグ左投手最多タイ記録
  • MLBオールスターゲーム選出:2回(1933年1934年
  • 最多得点:8回(1919年 - 1924年、1926年 - 1928年)
  • 最多四球:11回(1920年、1921年、1923年、1924年、1926年 - 1928年、1930年 - 1933年)
  • リーグ最高出塁率:10回(1919年 - 1921年、1923年、1924年、1926年、1927年、1930年 - 1932年)
  • リーグ最高長打率:13回(1918年 - 1924年、1926年 - 1931年)
  • リーグ最高OPS:13回(1918年 - 1924年、1926年 - 1931年)
  • シーズン50本塁打:4回(1920年、1921年、1927年、1928年)※MLBタイ記録、他にもマーク・マグワイアサミー・ソーサが達成
  • シーズン40本塁打:11回(1920年、1921年、1923年、1924年、1926年 - 1932年)
  • 通算サヨナラ本塁打:12本
  • 通算満塁本塁打:16本
  • 通算ランニング本塁打:10本
  • 10勝10本塁打(1918年)※史上初、他にも大谷翔平が達成

背番号

脚注

注釈

  1. ^ いずれも「赤ん坊」の意。
  2. ^ この記録は、1974年ハンク・アーロンによって破られるまでの39年間、MLB通算最多記録であった。
  3. ^ 残りの4人はタイ・カッブホーナス・ワグナークリスティ・マシューソンウォルター・ジョンソン
  4. ^ この記録は、1961年ロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLBシーズン最多記録であった。
  5. ^ セント・メアリーでは、少年たちの将来のために様々な職業訓練を行っており、ルースは仕立屋になるための訓練を受けていた。
  6. ^ ルース自身の成人時の身長は6フィート2インチ=約188cmであった。
  7. ^ なお、著者は同書の執筆にあたって、当時の日本で入手可能な参考文献として、R・クリーマー著・宮川毅訳『ベーブ・ルースの内幕』と、ルース本人著・宮川毅訳『ベーブ・ルース自伝』(いずれもベースボール・マガジン社刊)を、さらに電話取材先として「ベーブ・ルースの生家兼博物館」理事長のマイケル・ギボンズを挙げている。
  8. ^ 決して父と折り合いが悪かったわけではなく、件の酒場は後にプロ野球で成功したルース自身が、それまでよりもっと立派な酒場を父に提供したものであり、ルース自らもシーズンオフに働く事で客を集めている[1]
  9. ^ 現在のオリオールズ球団とは無関係であり、当時はマイナーリーグチーム。
  10. ^ この試合では代わってマウンドに上がったアーニー・ショア英語版が9回終了まで投げ抜き、史上初の継投によるノーヒットノーランが成立した。なお、1991年に記録の見直しが行われるまで、この試合はショアによる完全試合という扱いであった。
  11. ^ 金城漢ヘテ)が1982年に防御率2.08、大谷翔平日本ハム)が2015年に2.24、2016年に1.86。
  12. ^ 154試合制での記録。後に2001年シアトル・マリナーズが162試合で116勝を達成している。
  13. ^ なお、この60号本塁打の有名な記録映画があるが、ヤンキースは1928年まで背番号を採用していなかったにもかかわらず、背中にくっきりと背番号「3」を背負っている。これは、後に撮影したものを脚色したり編集したりしたものと見られている[5]
  14. ^ それまでもオープン戦などでマウンドに上がることは度々あった。
  15. ^ 現在の独立リーグチームであるニューアーク・ベアーズとは別。
  16. ^ これは、自分がどんな良いことをして感謝されてもすぐに忘れてしまうというルースの性格をよく表すエピソードとしても有名であり、後年ジョニーも壮年になってから読んだルースの伝記でそのことを知ったが、気にしていないと語っている[8]
  17. ^ なお、ジョニー・シルベスターは1990年1月8日に死去したが、彼が亡くなったときには、本エピソードの少年として日本の新聞の訃報記事にも掲載されている[9]
  18. ^ ルース引退後にゲーリッグは493本、フォックスは534本まで記録を伸ばした。
  19. ^ 当時は当然テレビもない。アメリカでテレビ放送が始まったのは第二次世界大戦中の1941年である。

出典

  1. ^ 久米穣著『少年少女伝記文学館 ベーブ・ルース』(1989年、講談社)より[注 7]
  2. ^ 久米穣著『少年少女伝記文学館 ベーブ・ルース』(講談社)
  3. ^ David Vincent 2008, p. 57
  4. ^ Most expensive baseball bat sold at auction” (英語). Guinness World Records. 2014年3月6日閲覧。
  5. ^ a b 伊東一雄『メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事』サンケイスポーツ、60-61頁。 
  6. ^ 大谷翔平はワールドシリーズで歴史に残る「ミスター・オクトーバー」になれるか?」『web Sportiva』2024年10月23日。2024年11月16日閲覧
  7. ^ Los Angeles Angels' Shohei Ohtani joins Babe Ruth as only players in MLB history to have at least 10 HRs and 10 wins in same season” (英語). www.espn.com (2022年8月10日). 2022年8月10日閲覧。
  8. ^ 久米穣著『少年少女伝記文学館 ベーブ・ルース』(講談社)など。
  9. ^ 福島民報1990年1月9日紙面など。
  10. ^ 久米穣著『少年少女伝記文学館 ベーブ・ルース』(講談社)
  11. ^ Pittsburgh Post-Gazette英語版: "Babe Ruth Dies in New York Hospital, Aged 53", Tuesday, August 17, 1948, p.15
  12. ^ 伝記より。
  13. ^ 大谷翔平初のホームスチール! ベーブ・ルースは成功8回、失敗7回”. 日刊スポーツ (2021年9月1日). 2022年8月5日閲覧。
  14. ^ 阪神甲子園球場のベーブ・ルースのレリーフをボルチモアの「総合スポーツ記念館」へ寄贈 - 阪神甲子園球場 株式会社阪神タイガース 2005年3月28日 (PDF)
  15. ^ 博物館だより 第24号 富山市郷土博物館 1999年1月31日
  16. ^ 日本プロ野球偉人伝vol1 ベースボールマガジン社P20

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