稲田昌植とは? わかりやすく解説

稲田昌植

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 20:24 UTC 版)

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稲田昌植

稲田 昌植(いなだ まさたね、1890年明治23年)8月28日[1] - 1968年昭和43年)11月28日[2])は、大正時代から昭和時代の農学者政治家。稲田家17代当主。男爵北海道帝国大学初代総長佐藤昌介の二男[1]で、稲田家16代当主・伯父稲田邦植の養子[1]

経歴

北海道札幌市出身。東北帝国大学農科大学(現北海道大学)卒業。在学中の1912年(明治45年)三瓶勝美中尉や中澤治平中尉のスキー講習会に参加し大学にスキー部を創部した。

伯父・稲田邦植の養子となり、その隠居に伴い、1920年大正9年)3月10日に男爵を襲爵[1][3]。同年に東京外国語学校教授となり、その後東京農業大学教授となった。1925年(大正14年)全日本スキー連盟(当時は大日本スキー連盟)初代会長に就任(~昭和20年)。

1925年3月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に属し1947年(昭和22年)5月2日に貴族院が廃止されるまで在任[2]。1933年6月10日、貴族院議員視察団の一員として横浜港より「橫濱丸」で出帆し、サイパン、ヤップ、パラオ、フィリピンなどを視察し、これを「南遊記」にまとめている。1936年(昭和11年)、廣田内閣拓務政務次官を務めた。太平洋戦争後は日本大学教授となる。昭和43年に78歳で没した。

著作

  • スキー / 稲田昌植(大正5年、厚生堂)
  • 婦人農業問題(大正6年、丸山舎書籍部)
  • 台湾糖業政策(大正10年、拓殖局)
  • 農民離村の研究(義父有馬頼寧との共著。大正11年、巌松堂書店)
  • 農村問題と其将来(大正14年、新政社)
  • 植民と農政 (昭和2年、巌松堂書店)
  • 維新の宏謨と農道(井上一次山崎延吉共著。昭和6年、農民社)
  • 南遊記(昭和8年、国民新聞社)
  • 世界農業史論(佐藤昌介共著、昭和10年、西ヶ原刊行会)
  • 銀界三十年(昭和13年、六芸社)
  • 顔兄弟(昭和15年、外地評論社)
  • 続世界農業史論(半沢耕貫共著、昭和19年、西ヶ原刊行会)
  • 食糧問題の解決(昭和25年、日本乳製品協会)
  • スキー繁昌記(昭和29年、積雪科学館)

親族

脚注

  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、178-179頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』64頁。
  3. ^ 『官報』第2279号、大正9年3月11日。

参考文献

関連項目


日本の爵位
先代:
稲田邦植
男爵
稲田家第2代
1920年 - 1947年
次代:
華族制度廃止




固有名詞の分類


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