金子歩とは? わかりやすく解説

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金子歩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/09 22:35 UTC 版)

金子 歩
基本情報
国籍 日本
出身地 京都府京都市中京区[注 1][1]
生年月日 (1968-12-07) 1968年12月7日(56歳)
身長
体重
180[注 2] cm
75[注 3] kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト外
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

金子 歩(かねこ あゆみ、1968年12月7日 - )は、京都府京都市中京区出身[注 1]の元プロ野球選手投手[1]。左投左打[1]

経歴

プロ入り前

花園小学校および千葉県市川市市川市立第七中学校を経て、東海大学付属甲府高校へ入学[5]。3年生だった1986年に東海大甲府高校は夏の甲子園への出場を果たしたが、山梨大会では窪田、山本の2投手のみが登板しており[注 4]、金子は県大会・甲子園ともベンチ入りはできなかった[12]。高校時代の同期に山根善伸が、1年後輩に久慈照嘉がいる[13]

高校卒業後は社会人野球の練習生として野球を続けた[3][5]1988年11月13日に中日ドラゴンズナゴヤ球場で実施した新人テストを受験、小池貴志とともに基礎体力などの1次試験に合格した[3]。その後、浜松秋季キャンプに合流、そこで行われた2次試験に合格[3]、同年12月24日に練習生[注 5]として中日に入団することが発表された[3][2][19]背番号97[3][2][5]

プロ入り後

1年目の1989年シーズンは練習生として過ごし、一軍(セントラル・リーグ)だけでなく二軍ウエスタン・リーグ)でも登板機会はなかった[20]。同年は二軍の試合前にチームメイトたちとともに練習し、試合中にはネット裏でスコアブックをつけながら勉強していたという[6]。同年秋にはアメリカ教育リーグ参加メンバーに選抜され、入団後初の実戦登板を経験した[6]。オフに背番号を69に変更した[8][21]

1990年年俸は360万円だった[20]。同年は『週刊ベースボール』では支配下選手登録された扱いで選手名鑑に掲載されていたが[8][9]、閉幕後の11月28日時点では練習生扱いになっていた[22]。同年はサイドスローにも挑戦したが[22]、出場機会はなかった[23]。同年11月28日には契約更改のため球団事務所を訪れたが、その際に球団代表の伊藤から戦力外通告[注 6]を言い渡され[22]、同日には退団が発表された[25]。この時には球団代表から、今後も野球を続けるつもりならば他球団の入団テストを受験できるよう協力する旨も申し渡されていた[22]。しかしその後、監督星野仙一ら現場スタッフが貴重な左投手であることに加え、本人が野球を続けたい気持ちも強いことを買い、フロントに金子との再契約を要請、同年暮れに練習生として再契約した[26]。それ以来、金子は「一度は死んだ身」として中日球団の屋内練習場で自主トレを続けていた[26]。このような経緯から、1990年末の『中日スポーツ』『日刊スポーツ』『報知新聞』における現役引退選手および退団者リスト[27][24][28]、および1991年3月発売の『ホームラン』1991年版選手名鑑ではオフの「退団・現役引退者」に金子の名が掲載されている一方[29]、『月刊Dragons』に掲載された1991年2月11日時点の中日の選手名簿には在籍選手として金子の名が掲載されている[30]

1991年の背番号は98[7][21]。同年はシーズン開幕当初まで支配下選手登録されていたが、同年4月11日には近藤真一中嶋治彦辻本弘樹富永章敬加賀元、小池とともに支配下選手登録を外され「準支配下選手」[注 7]として公示されており[32]、同シーズンは準支配下選手として在籍した扱いとなっている[33]。同年は投球フォームをサイドスロー気味に改造したが[7]、同シーズンも出場機会はなかった[34]。同年10月14日には翌15日から25日まで高知県で開催される黒潮リーグの参加選手になることが発表されていたが[35]、同年11月21日付で中日を自由契約になった[36][37][38]。一方で同年11月には杉本征使とともに、グリーンスタジアム神戸サブ球場で開催されていたオリックス・ブルーウェーブ二軍練習に参加し、そこで入団テストを受験した[39][40]。中日を自由契約になった翌22日に開催されたNPBドラフト会議で、オリックスは金子をドラフト指名する必要があるかをパシフィック・リーグ(パ・リーグ)連盟と中日[38]、もしくはNPB機構に問い合わせていたが[36]、このようにドラフト会議の場で経験者を指名しようとした事例は珍しいこととされている[37]。しかしパ・リーグ連盟[38]もしくはNPB機構は、金子が一度支配下選手としてプロ入りしていることから、ドラフト会議での指名を経ず自由契約選手の扱いで獲得することを認めた[36]。このため金子は同会議では指名されることなく、自由契約扱いでオリックスに入団することが決まり[注 8][37]、同年12月3日にオリックスと年俸400万円で1992年シーズンの契約を締結した[41]。1992年シーズンの背番号は66[1]

1992年は支配下選手としてオリックスに在籍したが[33]、同年も一軍(パシフィック・リーグ)、二軍(ウエスタン・リーグ)ともに出場機会はなかった[42]。同年限りでオリックスを退団し[43]、同年12月2日付でNPBコミッショナーより自由契約選手として公示された[44][45]。本人はプロ4年間で二軍も含めて一度も公式戦に登板できなかったことを心残りに感じており、年内いっぱいまで新たな移籍先を探したが[46]、獲得球団はなかった。

選手としての特徴

中日の入団テストを受験した際、受験者の中でも速球球速が群を抜いて速い点を注目されており[3][5]、大型の左投手として期待されていた[5]。プロ入り後は遠投100 mの肩が武器とされていた一方、制球力が課題とされていた[8]

また中日入団後はカーブが高く評価されていた一方、右打者への内角球の習得が課題とされていた[7]

詳細情報

年度別投手成績

  • 一軍公式戦出場なし

背番号

  • 97(1989年)[21]
  • 69(1990年)[21]
  • 98(1991年)[21]
  • 66(1992年)[1]

脚注

注釈

  1. ^ a b 東京都世田谷区出身とする文献[5]、東京都出身とする文献[6][7][4]埼玉県出身とする文献もある[8][9]。また中日ドラゴンズ公式サイトに収録されたデータでは千葉県出身となっている[10]
  2. ^ 身長183 cmとする文献[2]、176 cmとする文献もある[3]
  3. ^ 体重78 kgとする文献もある[4]
  4. ^ 3年生でエースの窪田竜二、2年生で控えの山本信幸[11]
  5. ^ 練習生とは、1965年から1990年にかけてNPB球団が取っていた雇用形態で、支配下選手登録されてはいないが、当該球団のユニフォームを着用して練習に参加できるというものである[14]。NPBでは1990年まで「練習生」や球団職員としてドラフト対象外選手を採用した後、ドラフト指名で獲得するということが行われていた(代表例に伊東勤大豊泰昭など)が、このような行為はドラフト指名を有利に展開する「抜け道」であるとして問題視され、1990年9月7日のプロ野球実行委員会で各球団とも「ドラフト対象外選手といかなる雇用関係も結ばず、またその影響下に置かない」「ドラフト対象外選手の野球活動に関する一切の便宜供与をしない」という2点の申し合わせがなされ、練習生の採用は禁止された[15]。このため、12球団は翌1991年のドラフト会議から原則として新人選手を獲得するにあたり、全てドラフト会議での指名を経なければならなくなった[16]。1991年のドラフト会議では社会人選手のみドラフト外指名が禁止され[17]、翌1992年からはドラフト外獲得は原則として全面禁止となった[18]
  6. ^ 任意引退と報じている新聞もある[24]
  7. ^ NPBは1991年4月まで、故障や海外研修などのため60人の支配下選手枠から外れる選手を球界から引退する選手と同様に「任意引退選手」としていたが、同月4日のNPB実行委員会でそのような選手は「準支配下選手」と名称変更することが決まった[31]。この経緯については河野博文#失踪騒動も参照。
  8. ^ 無償トレードによる移籍とする報道もある[38]

出典

  1. ^ a b c d e 「'92プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第16巻第4号、日本スポーツ出版社、1992年3月31日、56頁。  - 通巻:第162号。1992年3月号増刊。
  2. ^ a b c 『中日新聞』1988年12月25日朝刊第12版25頁「中日練習生に2投手を採用」(中日新聞社) - 縮刷版1003頁。
  3. ^ a b c d e f g 『中日スポーツ』1988年12月25日付第5版3頁「1位の今中クンに負けないゾ 金子小池 テスト生で入団 いずれも投手」(中日新聞社)
  4. ^ a b 『オリックス・ブルーウェーブ イヤーブック 1992』オリックス野球クラブ(発行)、プレス出版(発売)、1992年4月1日発行、65頁。ISBN 4938601095
  5. ^ a b c d e f 中日スポーツ(企画) 編『中日ドラゴンズ '89ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1989年3月12日、99頁。ISBN 978-4806202073 
  6. ^ a b c 『ドラゴンズ'90ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1991年3月14日、72頁。ISBN 4806202223
  7. ^ a b c d 『ドラゴンズ'91ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1991年3月6日、65頁。ISBN 4806202371
  8. ^ a b c d 週刊ベースボール』1990年2月26日号(第45巻第9号、通巻1809号)78頁、ベースボール・マガジン社、NDLJP:7909626/40
  9. ^ a b 週刊ベースボール』1992年2月24日号(第47巻第7号、通巻1926号)82頁、ベースボール・マガジン社、NDLJP:7909743/42
  10. ^ 歴代背番号」『中日ドラゴンズ 公式サイト』中日ドラゴンズ。2025年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧 - 「金子歩」と検索して出力されたデータを閲覧。
  11. ^ 『朝日新聞』1986年7月28日東京朝刊山梨版20頁「東海大甲府の大会成績」(朝日新聞東京本社・甲府支局)
  12. ^ 朝日新聞』1986年7月31日東京朝刊山梨版21頁「第68回全国高校野球山梨大会 大会を振り返って(下) 若いチームが活躍 精神力の大切さプレーに」(朝日新聞東京本社・甲府支局)
  13. ^ 『朝日新聞』1986年8月8日東京朝刊山梨版21頁「第68回全国高校野球選手権大会 東海大甲府 福井商 きょう対戦 ナイン静かな闘志 本番に備え入念な調整」(朝日新聞東京本社・甲府支局)
  14. ^ 小林至 2018, pp. 244–246.
  15. ^ 『中日新聞』1990年9月8日朝刊運動1面25頁「練習生の採用禁止 プロ野球実行委が確認」(中日新聞社)
  16. ^ 『朝日新聞』1991年11月14日東京朝刊解説面5頁「戦力均等化 ドラフト:上(なんでもQ&A)」(朝日新聞東京本社 運動部・上野隆)
  17. ^ 『読売新聞』1991年9月5日東京朝刊スポーツA面19頁「ロッテの千葉移転が正式に決定/プロ野球実行委員会」(読売新聞東京本社)
  18. ^ 『中日新聞』1992年11月21日朝刊運動1面27頁「きょうドラフト会議 “竜の恋人”松井はどこへ 本人「すごく楽しみ」」(中日新聞社)
  19. ^ 朝日新聞』1988年12月25日名古屋朝刊第14版スポーツ面13頁「ドラフト情報 24日」(朝日新聞名古屋本社
  20. ^ a b 「'90プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第14巻第4号、日本スポーツ出版社、1990年3月31日、59頁。  - 通巻:第138号。1990年3月号増刊。
  21. ^ a b c d e 『昇竜の軌跡 中日ドラゴンズ70年』206号、ベースボール・マガジン社、2007年1月1日、167頁。  - 『週刊ベースボール』別冊冬季号。2007年1月1日発行。第34巻第1号(通巻:第206号)。
  22. ^ a b c d 『中日スポーツ』1990年11月29日朝刊第5版3頁「Dパトロール 金子ショックの退団」(中日新聞社)
  23. ^ ベースボール・マガジン社(編)『1991 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1990年12月25日第1版第1刷発行、496-498頁。ISBN 4583028822
  24. ^ a b 日刊スポーツ』1990年12月26日付第7版2頁「ファイナル'90 現役を去る男たち セ・リー」「1990年度現役引退選手」(日刊スポーツ新聞社
  25. ^ 『中日新聞』1990年11月29日朝刊運動1面25頁「山田喜「お!!」+46%700万円 でも全般にお寒い更改 中日若手ら“先陣”」(中日新聞社)
  26. ^ a b 『中日スポーツ』1991年1月16日付5版3頁「ドラ番記者 「一度死んだ身」金子の気迫」(遍)(中日新聞社)
  27. ^ 『中日スポーツ』1990年12月31日付第5版2頁「特報TODAY '90プロ野球来る人去る人 サッシー酒井は打撃投手 阪急1位 関口、営業マンに 磯貝(前巨人)大学受験」(中日新聞社 阿知波浩二記者)
  28. ^ 報知新聞』1990年12月31日付第7版4頁「セ・リーグ 来る人去る人」(報知新聞社
  29. ^ 「'91プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第15巻第4号、日本スポーツ出版社、1991年3月31日、77頁。  - 通巻:第150号。1991年3月号増刊。
  30. ^ 中日スポーツ(編集)『月刊Dragons』中日新聞社、第95号、1991年3月1日発行、38-39頁「1991年 中日ドラゴンズ選手名簿(平成3年2月11日現在)」 - 1991年3月号。
  31. ^ 読売新聞』1991年4月5日東京朝刊スポーツB面18頁「「任意引退選手」から「準支配下選手」へ名称変更/プロ野球実行委員会」(読売新聞東京本社
  32. ^ 『中日スポーツ』1991年4月12日第5版2頁「セが準支配下選手 近藤ら59人を公示」(中日新聞社)
  33. ^ a b 検索結果 | プロ野球在籍者名簿」『NPB.jp 日本野球機構』日本野球機構。2025年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月1日閲覧 - 「プロ野球在籍者名簿」の注意として、1991年の準支配下選手は(準支)と表記して在籍扱いとする一方、練習生は在籍より除く旨が記載されている。
  34. ^ ベースボール・マガジン社(編)『1992 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1991年12月25日第1版第1刷発行、573-575頁。ISBN 4583029519
  35. ^ 『中日スポーツ』1991年10月15日付第5版2頁「初の〝黒潮リーグ〟 きょうから高知で」(中日新聞社)
  36. ^ a b c 『中日スポーツ』1991年11月23日第5版3頁「Dパトロール」(中日新聞社)
  37. ^ a b c 『日刊スポーツ』1991年11月23日東京版第7版スポーツ面3頁「ドラフトの場でトレード」(日刊スポーツ新聞社)
  38. ^ a b c d スポーツニッポン』1991年11月23日大阪版第12版2頁「会議の舞台裏でトレードが成立 中日・金子、オリックスへ」(スポーツニッポン新聞社
  39. ^ スポーツ報知』1991年11月23日大阪版7版5頁「オリックスが杉本、金子の両投手を獲得」(報知新聞社
  40. ^ 『日刊スポーツ』1991年11月23日東京版第7版スポーツ面6頁「球界情報(22日)テスト採用」(日刊スポーツ新聞社)
  41. ^ 『中日スポーツ』1991年12月4日第5版4頁「【オリックス】元中日の金子ら獲得」(中日新聞社)
  42. ^ ベースボール・マガジン社(編)『1993 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1992年12月25日第1版第1刷発行、527-529頁。ISBN 4583030363
  43. ^ 「'93プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第17巻第4号、日本スポーツ出版社、1993年3月31日、63頁。  - 通巻:第174号。1993年3月号増刊。
  44. ^ 『日刊スポーツ』1992年12月3日大阪版第13版2頁「コミッショナー公示(2日)【自由契約選手】」(日刊スポーツ新聞社)
  45. ^ 毎日新聞』1992年12月3日東京朝刊第14版21頁「コミッショナー公示(2日)【自由契約選手】」(毎日新聞東京本社) - 縮刷版91頁。
  46. ^ 『日刊スポーツ』1992年12月17日付第7版スポーツ面4頁「連載サヨナラ・プロ野球(3)オリックス編 杉本征使(25歳)「1位指名」も幻の一軍登板」「今季でユニホーム脱ぐ選手たち」(日刊スポーツ新聞社【高垣誠】)

参考文献

  • 小林至「プロ野球におけるドラフト外で入団した選手が, 人材獲得手段として果たしてきた役割」『スポーツ産業学研究』第28巻第3号、日本スポーツ産業学会、2018年、241-256頁、doi:10.5997/sposun.28.241 

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