小池貴志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/09 22:31 UTC 版)
基本情報 | |
---|---|
国籍 | ![]() |
出身地 | 愛知県名古屋市港区[1] |
生年月日 | 1970年10月8日(54歳) |
身長 体重 |
184 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト外 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
|
小池 貴志(こいけ たかし、1970年10月8日 - )は、愛知県名古屋市港区出身の元プロ野球選手(投手)[1]。右投右打[1]。
経歴
プロ入り前
高校時代から投手として注目されていたが[3]、3年生だった1988年6月に右肘を痛めたため、一時は野球を断念した[2]。しかし右肘が回復したことを受け、「もう一度、自分の力を試してみたい」との理由から、同年11月13日に中日ドラゴンズがナゴヤ球場で実施した新人テストを受験、金子歩とともに基礎体力などの1次試験に合格した[4]。同月中旬[5]、浜松秋季キャンプに合流し、そこで行われた二次試験に合格[4]、同年12月24日に練習生[注 1]として中日に入団することが発表された[4][11]。背番号は94[4][12][2]。
プロ入り後
1989年シーズンは練習生として過ごし、一軍(セントラル・リーグ)だけでなく二軍(ウエスタン・リーグ)でも登板機会はなかった[1]。同年オフ、背番号を67に変更した[1]。同年秋のアメリカ教育リーグでは金子とともに、入団後初の実戦登板を経験した[3]。
1990年シーズンは年俸360万円だった[1]。同シーズンも練習生扱いで在籍しており、一軍・二軍とも実戦登板機会はなかった[13]。一方で『週刊ベースボール』1990年版では、小池は同年に支配下選手登録されたと解説されているが[14]、同誌1991年版には、小池は1990年シーズンは練習生のため実戦登板がなかったという記述があり[15]、また1992年版には過去3年間にわたって練習生として過ごしたという旨の記述がある[16]。中日球団のファンブックによれば、小池は入団から2年間は打撃投手として下積みをしていた[17]。同年11月28日には年俸340万円(前年と同額)で契約更改した[18]。
1991年シーズンは当初、支配下選手登録されていたが、同年4月11日には近藤真一、中嶋治彦、辻本弘樹、富永章敬、加賀元、金子歩とともに支配下選手登録を外され「準支配下選手」[注 2]として公示されており[20]、同シーズンは準支配下選手扱いで在籍した扱いとなっている[21]。同年も一軍・二軍とも登板機会はなかった[22]。同年オフの黒潮リーグでは本人曰く「これが最後だと思ってガムシャラに投げた」といい、相手打者を次々に空振りさせる好投を披露した[23]。本人はプロ生活での一番の思い出として、この黒潮リーグの横浜大洋ホエールズ戦で先発して勝利投手になったことを挙げている[24]。その後、秋季キャンプでもブルペンで好投を見せていた[23]。
1992年は支配下選手として在籍し[21]、同シーズンの年俸は400万円だった[22]。同年も出場機会はなく[24][25]、12月2日付でNPBコミッショナーより自由契約選手として公示され[26][27]、同年限りで中日を退団[28]、現役を引退した[29][24]。
引退後
引退後は1993年から中日の球団職員(室内練習場担当)に就任した[30]。一方で打撃投手になると報じた新聞もある[31]。2006年まで中日球団広報部に所属していたが、2007年1月1日付で営業部に異動となった[32]。2019年4月時点では中日球団イベント推進部に所属し[33]、ファームの営業を担当していた[34]。またNPB12球団ジュニアトーナメントでは2023年・2024年に中日ドラゴンズジュニアのチーム代表を務めた[35][36][37]。
選手としての特徴
中日時代は年長の同僚である与田剛や郭源治のように速球で勝負する投手を目標としていた[13]。入団後は遠投98 mの強肩と速球の威力が武器で[14]、高身長に加え[13]、スタミナも十分であると評されており、鍛え方によっては十分将来の戦力になりうる投手と評されていた[22]。一方で体力、技術面の向上が課題とされていた[14]。
詳細情報
年度別投手成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
脚注
注釈
- ^ 練習生とは、1965年から1990年にかけてNPB球団が取っていた雇用形態で、支配下選手登録されてはいないが、当該球団のユニフォームを着用して練習に参加できるというものである[6]。NPBでは1990年まで「練習生」や球団職員としてドラフト対象外選手を採用した後、ドラフト指名で獲得するということが行われていた(代表例に伊東勤・大豊泰昭など)が、このような行為はドラフト指名を有利に展開する「抜け道」であるとして問題視され、1990年9月7日のプロ野球実行委員会で各球団とも「ドラフト対象外選手といかなる雇用関係も結ばず、またその影響下に置かない」「ドラフト対象外選手の野球活動に関する一切の便宜供与をしない」という2点の申し合わせがなされ、練習生の採用は禁止された[7]。このため、12球団は翌1991年のドラフト会議から原則として新人選手を獲得するにあたり、全てドラフト会議での指名を経なければならなくなった[8]。1991年のドラフト会議では社会人選手のみドラフト外指名が禁止され[9]、翌1992年からはドラフト外獲得は原則として全面禁止となった[10]。
- ^ NPBは1991年4月まで、故障や海外研修などのため60人の支配下選手枠から外れる選手を球界から引退する選手と同様に「任意引退選手」としていたが、同月4日のNPB実行委員会でそのような選手は「準支配下選手」と名称変更することが決まった[19]。この経緯については河野博文#失踪騒動も参照。
出典
- ^ a b c d e f g 「'90プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第14巻第4号、日本スポーツ出版社、1990年3月31日、59頁。 - 通巻:第138号。1990年3月号増刊。
- ^ a b c d 中日スポーツ(企画) 編『中日ドラゴンズ '89ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1989年3月12日、99頁。ISBN 978-4806202073。
- ^ a b 『ドラゴンズ'90ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1991年3月14日、73頁。ISBN 4806202223
- ^ a b c d 『中日スポーツ』1988年12月25日付第5版3頁「1位の今中クンに負けないゾ 金子小池 テスト生で入団 いずれも投手」(中日新聞社)
- ^ 『週刊ベースボール』1989年1月23日号(第44巻第4号、1743号)72頁「中日ドラゴンズ > ドラ番記者」
- ^ 小林至 2018, pp. 244–246.
- ^ 『中日新聞』1990年9月8日朝刊運動1面25頁「練習生の採用禁止 プロ野球実行委が確認」(中日新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1991年11月14日東京朝刊解説面5頁「戦力均等化 ドラフト:上(なんでもQ&A)」(朝日新聞東京本社 運動部・上野隆)
- ^ 『読売新聞』1991年9月5日東京朝刊スポーツA面19頁「ロッテの千葉移転が正式に決定/プロ野球実行委員会」(読売新聞東京本社)
- ^ 『中日新聞』1992年11月21日朝刊運動1面27頁「きょうドラフト会議 “竜の恋人”松井はどこへ 本人「すごく楽しみ」」(中日新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1988年12月25日名古屋朝刊第14版スポーツ面13頁「ドラフト情報 24日」(朝日新聞名古屋本社)
- ^ 『中日新聞』1988年12月25日朝刊第12版25頁「中日練習生に2投手を採用」(中日新聞社) - 縮刷版1003頁。
- ^ a b c 「'91プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第15巻第4号、日本スポーツ出版社、1991年3月31日、77頁。 - 通巻:第150号。1991年3月号増刊。
- ^ a b c 『週刊ベースボール』1990年2月26日号(第45巻第9号、通巻1809号)78頁、ベースボール・マガジン社、NDLJP:7909626/40
- ^ 『週刊ベースボール』1991年2月25日号
- ^ 『週刊ベースボール』1992年2月24日号(第47巻第7号、通巻1926号)117頁、ベースボール・マガジン社、NDLJP:7909743/59
- ^ 『ドラゴンズ'91ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1991年3月6日、65頁。ISBN 4806202371
- ^ 『中日スポーツ』1990年11月29日朝刊第5版3頁「山田喜 46%アップ700万円 提示額見て『アッ、多いな』」(中日新聞社)
- ^ 『読売新聞』1991年4月5日東京朝刊スポーツB面18頁「「任意引退選手」から「準支配下選手」へ名称変更/プロ野球実行委員会」(読売新聞東京本社)
- ^ 『中日スポーツ』1991年4月12日第5版2頁「セが準支配下選手 近藤ら59人を公示」(中日新聞社)
- ^ a b 「検索結果 | プロ野球在籍者名簿」『NPB.jp 日本野球機構』日本野球機構。2025年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月1日閲覧。 - 「プロ野球在籍者名簿」の注意として、1991年の準支配下選手は(準支)と表記して在籍扱いとする一方、練習生は在籍より除く旨が記載されている。
- ^ a b c d 「'92プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第16巻第4号、日本スポーツ出版社、1992年3月31日、135頁。 - 通巻:第162号。1992年3月号増刊。
- ^ a b 『ドラゴンズ'92ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1992年3月11日、64頁。ISBN 4806202479
- ^ a b c 『日刊スポーツ』1992年12月26日付第7版3頁「サヨナラプロ野球(12)中日編 小川祥志 22歳 たった1度の一軍打席 夢忘れず…アマ指導者に」「今季でユニホームを脱ぐ選手たち」(日刊スポーツ新聞社【深谷広人】)
- ^ ベースボール・マガジン社(編)『1993 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1992年12月25日第1版第1刷発行、527-529頁。ISBN 4583030363
- ^ 『中日スポーツ』1992年12月2日第5版2頁「自由契約選手56人 コミッショナー公示(2日)」(中日新聞社)
- ^ 『毎日新聞』1992年12月3日東京朝刊第14版21頁「コミッショナー公示(2日)【自由契約選手】」(毎日新聞東京本社) - 縮刷版91頁。
- ^ 「'93プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第17巻第4号、日本スポーツ出版社、1993年3月31日、191頁。 - 通巻:第174号。1993年3月号増刊。
- ^ 『中日スポーツ』1992年12月28日付第5版2頁「自立へ向け14選手が退寮へ 合宿所四階部分閉鎖 中山寮長の方針 プレーでの自主性期待」(中日新聞社)
- ^ 『中日スポーツ』1992年12月29日付第5版2頁「Dパトロール 小池〝第二の人生〟」(中日新聞社)
- ^ 『スポーツ報知』1992年12月31日付第9版6頁「野球に人生賭ける新人116人」「野球だけが人生じゃないよ 去る101人」「悲喜こもごも12球団入れ替わり」「セ・リーグ来る人去る人」(報知新聞社)
- ^ 『日刊スポーツ』2007年1月6日付第7版野球面4頁「球界情報 5日 人事」(日刊スポーツ新聞社)
- ^ 『中日新聞』2019年6月30日朝刊4頁「世談 ファーム」(中日新聞社 運動部長・村井博美)
- ^ 『日経MJ』2019年9月30日朝刊一面1頁「スポーツマーケNEO イレブンスポーツ、600試合無料配信 プロ野球2軍 熱狂メジャー級」(日本経済新聞社)
- ^ 「ドラゴンズジュニアベースボール - NPB12球団ジュニアトーナメント2023 ドラゴンズジュニア 選手プロフィール」『中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト』中日ドラゴンズ、2023年。2025年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧。
- ^ 「ドラゴンズジュニアベースボール - NPB12球団ジュニアトーナメント2024 ドラゴンズジュニア 選手プロフィール」『中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト』中日ドラゴンズ、2024年。2025年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧。
- ^ 「2024.12.26 プロ野球NEWS 巨人のクローザーや、通算90勝の左腕まで…ジュニアトーナメントを率いる首脳陣は実績者揃い」『高校野球ドットコム』株式会社WoodStock、2024年12月26日。オリジナルの2024年12月26日時点におけるアーカイブ。2025年1月1日閲覧。
- ^ a b 『昇竜の軌跡 中日ドラゴンズ70年』206号、ベースボール・マガジン社、2007年1月1日、167頁。 - 『週刊ベースボール』別冊冬季号。2007年1月1日発行。第34巻第1号(通巻:第206号)。
参考文献
- 小林至「プロ野球におけるドラフト外で入団した選手が, 人材獲得手段として果たしてきた役割」『スポーツ産業学研究』第28巻第3号、日本スポーツ産業学会、2018年、241-256頁、doi:10.5997/sposun.28.241。
関連項目
- 小池貴志のページへのリンク