教育大競技部(1949-1974)
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「筑波大学陸上競技部」の記事における「教育大競技部(1949-1974)」の解説
1949年(昭和24年)6月1日、国立学校設置法の制定により新制国立大学68校が一斉に開学し、文理科大は東京高師・東京体育専門学校・東京農業教育専門学校と統合し、東京教育大学(教育大)が発足した。これに伴い、文理科大と東京体専の陸上競技部を統合し東京教育大学陸上競技部として関東学連に登録した。教育大陸上競技部の初代部長には浅川正一、監督には武政喜代次が就任した。旧制各校から移籍した者から新制高等学校の卒業生まで多様な年齢層の部員を抱えての始動であった。また、女子部員が入部するようになる。 部員は活動拠点である保谷の合宿所、部員のほとんどが所属する体育学部のある幡ヶ谷キャンパス(渋谷区西原一丁目)、一般教養の授業が行われる大塚キャンパス(文京区大塚三丁目)を行ったり来たりする生活を送った。実際の練習は火曜日に全部員が集まる合同練習を幡ヶ谷で、他の曜日の合同練習を保谷で、ブロック練習を保谷または幡ヶ谷で行い、週1日はフリー練習または休養としていた。霜柱が立たないよう冬季は幡ヶ谷のグラウンドに筵(むしろ)を敷く、保谷グラウンドに西武鉄道から払い下げた枕木を敷き詰め、そこにバーベルを並べてウエイトトレーニングを行うなど設備が整わないなりに工夫して練習が行われた。保谷グラウンドはラグビー部との兼用で、ラグビー部が練習しているそばで競技部員がハンマー投をするなど危険を伴いながらも事故は発生しなかったという。 教育大競技部として初めて参加した1949年(昭和24年)の日本インカレでは、競技部史上初めて0点に終わるという結果であった。この成績は『日本学生陸上競技70年史』で「名門の文理大は無得点に終わった。」と書かれるほどで、部内では開催地の名を取って「明石の0点を忘れるな!」を合言葉に練習や試合に臨むこととなった。翌1950年(昭和25年)は入賞1名で4点と何とか0点を脱し、1951年(昭和26年)に5位、1952年(昭和27年)に4位、1955年(昭和30年)・1956年(昭和31年)に連続で3位となるなど上位入賞はするものの優勝には届かない時期が続く。一方の女子は1952年(昭和27年)に関東インカレに初出場して3位に、日本インカレでは6位に入賞を果たす。その後日本インカレでは1956年(昭和31年)に3位、1957年(昭和32年)・1958年(昭和33年)に連続で2位など男子同様の活躍を見せるようになる。 教育大の後期は筑波研究学園都市への移転が取り沙汰されている時代であり、学生運動に傾注する学生も多く(筑波移転反対闘争)、競技部の活動も低調となっていく。この頃の部員数は1学年20人前後、総数80 - 90人であり、学生運動に身を投じて退部する部員も存在した。部員は主将を中心として熱心に励むも、関東インカレでは男女とも10位以内に入賞できるが優勝はなく、日本インカレでは女子はたびたび入賞を逃し、男子は1969年(昭和46年)の6位を最後に入賞できなくなってしまう。教育大の教員である部長・コーチ・監督ら指導陣は選手を強化しようにも大学闘争の処理で思うようにグラウンドに立つことができず、在京のOBが日頃の指導に尽力した。強化策としてOBが順天堂大学との競技会を企画・開催し、春や夏の合宿に「暁の超特急」こと吉岡隆徳や東京オリンピックでスターターを務めた松田岩男を臨時コーチとして招くなどした。また順天堂大学との競技会は日刊スポーツ新聞社の社員になっていたOBの安田矩明らの協力でナイター陸上へと発展し、スーパー陸上を経てゴールデングランプリ陸上として続いている。 教育大の筑波移転が現実問題となると、練習拠点の保谷合宿所は閉鎖が決まり、その時になって近隣商店に多額の借金を抱えていることが判明した。学生の自治管理による運営であったために発覚が遅れ、体育学部の教授会では原因究明と借金返済に大いに苦労したという。また嘉納治五郎が書いた「精力善用」の額を紛失していることも明らかとなった。
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