旭化成復帰、新聞記者へ(1960-1970)
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教育大を卒業した1960年(昭和35年)、安田は旭化成に戻り、静岡県の富士工場に配属された。富士工場には教育大競技部で2学年先輩だった大串啓二も勤務していた。同年に出場した東海選手権で、スチールポールで自身の持つ日本記録を破る4m40をマークし、これが参加標準記録であったローマオリンピックの日本代表の座を獲得した。旭化成富士工場からは安田のほか、400mHの大串とハンマー投の岡本登も日本代表に選出され、3人は7月27日に富士市役所広場で壮行会に出席、市民らに見送られながら富士駅からはまなに乗ってローマへ出発した。オリンピック当日は4m20を記録したが、結果は予選敗退であった。 1962年(昭和37年)、日刊スポーツ新聞社に転身し、運動部記者をしながら競技を続行した。この時グラスファイバーポールに替え、静岡選手権で自身の日本記録を1cm更新する4m41を打ち立て、生涯ベストとなった。27歳であった。10月の日本選手権では4m30で5位だった。1963年(昭和38年)、現役を引退する。 現役引退後は戦前に活躍した西田修平を担ぎ出して「棒高跳を強くする会」を結成、1966年(昭和41年)から「棒高ニッポン」の復活を目指すべく室内競技会を年数回開催した。また同年、教育大競技部監督の関岡康雄、順天堂大学陸上部監督の帖佐寛章、東京急行電鉄陸上部監督の築地美孝らと協力して第1回ニッカンスポーツ・ナイター陸上を開催した。ナイター陸上はスーパー陸上を経てゴールデングランプリ陸上として継続開催されている。1969年(昭和44年)3月13日から3月26日まで教育大競技部が台湾省陸上競技協会から台湾に招待され、安田もコーチとして参加した。10歳まで台湾に暮らした安田は、久々の台湾訪問が決まってから2、3日は少年時代の夢を見るほどに楽しみにして乗り込んだ。現地では戦後初の日本の陸上関係者の訪問とあって大歓迎であり、教育大競技部一行は嘉義市で台湾省選手権に参加し、嘉義・高雄・台北・台中の4都市で陸上講習会を開催した。当時の台湾陸上界は、世界レベルの選手も数名いたが全体的には日本に比べて遅れており、指導陣はほぼ日本統治時代に選手だった人々で占められていた。棒高跳はグラスファイバーポールが普及しておらず、選手権では前日に刈り取った青竹を使っていた。安田は引退から6年を経て台湾省選手権に青竹ポールで飛び入り参加し、3m70で2位入賞を果たした。
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