旭化成復帰、新聞記者へとは? わかりやすく解説

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旭化成復帰、新聞記者へ(1960-1970)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 21:37 UTC 版)

安田矩明」の記事における「旭化成復帰、新聞記者へ(1960-1970)」の解説

教育大を卒業した1960年昭和35年)、安田旭化成戻り静岡県富士工場配属された。富士工場には教育大競技部で2学年先輩だった大串啓二勤務していた。同年出場した東海選手権で、スチールポールで自身の持つ日本記録を破る4m40をマークし、これが参加標準記録であったローマオリンピック日本代表の座を獲得した旭化成富士工場からは安田のほか、400mH大串ハンマー投岡本登日本代表選出され、3人は7月27日富士市役所広場壮行会出席市民らに見送られながら富士駅からはまなに乗ってローマへ出発したオリンピック当日は4m20を記録したが、結果予選敗退であった1962年昭和37年)、日刊スポーツ新聞社転身し運動部記者しながら競技続行した。この時グラスファイバーポール替え静岡選手権自身日本記録1cm更新する4m41を打ち立て生涯ベストとなった27歳であった10月日本選手権では4m30で5位だった。1963年昭和38年)、現役引退する現役引退後戦前活躍した西田修平担ぎ出して棒高跳強くする会」を結成1966年昭和41年)から「棒高ニッポン」の復活目指すべく室内競技会を年数開催した。また同年教育大競技部監督関岡康雄、順天堂大学陸上部監督帖佐寛章東京急行電鉄陸上部監督築地美孝らと協力して第1回ニッカンスポーツ・ナイター陸上開催したナイター陸上スーパー陸上経てゴールデングランプリ陸上として継続開催されている。1969年昭和44年3月13日から3月26日まで教育大競技部台湾省陸上競技協会から台湾招待され安田コーチとして参加した10歳まで台湾暮らした安田は、久々台湾訪問決まってから2、3日は少年時代夢を見るほどに楽しみにして乗り込んだ現地では戦後初の日本陸上関係者訪問とあって大歓迎であり、教育大競技部一行嘉義市台湾省選手権参加し嘉義高雄・台北・台中の4都市陸上講習会開催した当時台湾陸上界は、世界レベル選手数名いたが全体的に日本比べて遅れており、指導陣はほぼ日統治時代選手だった人々占められていた。棒高跳グラスファイバーポール普及しておらず、選手権では前日刈り取った青竹使っていた。安田引退から6年経て台湾省選手権青竹ポール飛び入り参加し、3m70で2位入賞果たした

※この「旭化成復帰、新聞記者へ(1960-1970)」の解説は、「安田矩明」の解説の一部です。
「旭化成復帰、新聞記者へ(1960-1970)」を含む「安田矩明」の記事については、「安田矩明」の概要を参照ください。

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