競技姿勢・競技観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 21:37 UTC 版)
幼少期から多くのスポーツに親しみ、中でも体操競技は、将来の夢に体操選手を挙げるほど熱中した。体操選手になる夢は高校時代に挫折するが、それまでの体操経験が棒高跳の技術に大いに役立ったと述懐している。具体的には鉄棒の車輪系の技が棒高跳のバーを越えるときの身のこなしをスムーズにし、空中動作に役立ったという。安田がスチールポールを使って樹立した4m40は、その後の選手がこぞってグラスファイバーポールに替えたため、金属ポールで記録した日本記録として残っている。安田の目標は4m50を超えることであったが、自己ベストは4m41で達成することはできなかった。 多くの陸上選手同様、安田も練習日誌を付けていたが、その内容は一味違った。1日の詳細な食事内容や練習で挑んだバーの高さと回数は元より、便の状態、心拍数、体重の変化、試合の数まで書き込んでいた。境高校2年から引退するまでの12年間日誌を書き続けた。安田の日誌によれば現役時代の出場試合数は145回で、うち83回は優勝するという高い勝率を保ち、6位以内に入れなかったのは5回だけだった。 「競技者は身体が資本である」との考えから、食事を第一に考え節制を心掛けた。このため1990年(平成2年)に行った栄養学セミナーの授業で、3分の2の学生が朝食を摂っていないという事実に驚いたという。競技を始めた頃、試合前日には緊張で睡眠が2、3時間しかとれなかったが、ドイツでダンスを踊ったらよく眠れた経験を元に、映画を見るなどリラックスできれば多少眠れなくても大丈夫という自信が付いた。なお、安田にとって最も嬉しかった思い出の1戦は、日本記録を樹立した大会ではなく、ユニバーシアードでの金メダルである。 選手としての安田はどんな大会でも、まるで時計の針のように正確に、自身の試技の3人前の選手がポールでバーの位置を計り始めるのと同時に体を動かして緊張を抑え、1人前の選手が助走位置に着くとユニフォーム姿でバーの下に待機を始めた。跳躍までの動作に時間をかける選手が多い中で、自身の出番が回ってきたらすぐ出られるように準備していた安田の競技姿勢は、審判員の間でも高評価であったという。あがり症であったため、教育大競技部に入部した頃の主将・飯塚祥人が試合前にメモを持ち込んでいたのにヒントを得て、自身の欠点や競技上の注意事項を書いたメモを主要大会に持ち込んで、試技ごとに見返していた。 安田はライバルの存在の重要性を説いている。具体例としてセルゲイ・ブブカの前にロディオン・ガタウリンというライバルが現れたことで、一時失われていたブブカのやる気が復活し、士気が上がったと指摘している。安田本人にとっては、大坪政士(現姓:小倉)や赤坂宏三の存在が大きく、彼らの長所・短所から、自身が勝てるのは逆立ちと器械体操だと判断し、これらをトレーニングに取り入れた。特に逆立ちは京都に行った際、知恩院の石段を逆立ちで下ったことがある。 安田は日本の陸上選手の問題点として、基礎的なトレーニングの不足、目的意識の欠如・希薄さ、小さいうちからの1つの競技への専心(他の競技に関心を示さない)、詰め込み教育による独創性のなさを挙げている。
※この「競技姿勢・競技観」の解説は、「安田矩明」の解説の一部です。
「競技姿勢・競技観」を含む「安田矩明」の記事については、「安田矩明」の概要を参照ください。
- 競技姿勢・競技観のページへのリンク