学生運動と公民権運動への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 16:57 UTC 版)
「キヨシ・クロミヤ」の記事における「学生運動と公民権運動への関与」の解説
在学中に、クロミヤは人権活動への関わりを深めるようになる。それは彼の性的指向に加え、ペンシルベニア大学が非常に閉鎖的であると感じたことが大きな要因であった。 クロミヤが本格的に積極行動主義の運動を開始したのは、大学1年生時に、人種平等会議(英語版)のメリーランドの食堂での座り込みに参加したのがきっかけだった。 クロミヤは、アフリカ系アメリカ人の公民権取得運動を展開していたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「I Have a Dream」の演説に立ち会ったその夜、ラルフ・アバナシー牧師やジェームズ・ボールドウィンらとともにキング牧師に会った。1963年のワシントンD.C.への20万人デモの後、再びキング牧師と会ったクロミヤは、アフリカ系アメリカ人の公民権取得を通じてキング牧師と密接に協力していくことになる。 1965年3月7日、クロミヤをはじめとする活動家たちは、アラバマ州セルマからモンゴメリーへの公民権運動「血の日曜日事件」にて、セルマのペタス橋で負傷した人々を支援するため、ペンシルバニア州フィラデルフィアの独立記念館を、フリーダムホテルと名づけて占拠する行動に出た。 翌週の3月13日、アラバマ州のセルマからモンゴメリーへの行進を前に、クロミヤ、キング牧師、フレッド・シャトルスワース(英語版)師、ジェームズ・フォルマン(英語版)は、モンゴメリーの州議事堂まで黒人高校生の選挙人登録行進(英語版)を先導している最中に保安官代理とそのボランティアに襲撃された。この事件でクロミヤは血まみれになり、頭の傷を20針縫う大けがを負った。警察の情報遮断で当初は死亡したと思われたが、ゲイの病院関係者の助けでマスコミに連絡することができた。 クロミヤは入院し、警察は封鎖される事態となったが、翌日、この事件について郡庁長から謝罪を受けたキング牧師は「南部の警官が公民権活動家を負傷させたことを謝罪したのは初めてだ」と述べた。 また、クロミヤに暴行を加えた保安官ボランティア部隊(白人市民会議またはKKKと同じ)を解散させるという、保安官からの署名入り声明文も受け取った。クロミヤはキング牧師のみならず、さらに家族とも親しく交際するようになり、キング牧師が暗殺された際には、アトランタの葬儀の期間中、牧師の子供たちの世話をした。
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