学生運動から市民運動へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:10 UTC 版)
同年、東京工業大学理工学部に入学、一年後に応用物理学科へ進学。在学中は学生運動にのめり込んだ。東工大の同級生によれば、大学の自治会に入り込んでいた中核派に対して菅は「イデオロギーでは何もかわらない。現実的な対応をしなければ」と批判し、15人ほどの組織「全学改革推進会議」を立ち上げて極左系とは違う学生運動を行った[信頼性要検証]。この全学改革推進会議は先鋭化していく全共闘や共産党の支配下にある民青とも異なり[信頼性要検証]、大学寄りの体制側グループでもない第4のグループであった。この集団は200人ほどの組織になった。 大学紛争の影響で卒業研究ができなかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年。1970年3月、東京工業大学理工学部応用物理学科を卒業。結婚については菅伸子を参照。 弁理士を目指し、小田島特許事務所に就職。1971年、弁理士試験に合格。弁理士を志望したのは、同じ大学出身の技術者であった父から、会社内での技術者の不遇を聞かされており、本屋で見つけた弁理士の本で関心を持ち、有名企業に就職しても「自分の将来・先が見える等」の理由からだった[要ページ番号]。また、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった。1974年に独立して「菅特許事務所」を開設する。その後弁護士となっていた大学の後輩と共に菅・高橋特許法律事務所を設立した。
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