北原金平直訴事件
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「伊達宗村 (仙台藩主)」の記事における「北原金平直訴事件」の解説
治世中に、領民から年貢減免の直訴を受けたという逸話が伝えられている。亘理町逢隈中泉の八幡神社にある「義民北原金平顕彰碑」の碑文には、「宝暦2年(1752年)、仙台藩は大凶作に見舞われた。このため、亘理郡中泉村の農民・北原金平に年貢を軽くして欲しいとの直訴を受けたが、参勤交代の帰途での直訴であったため、宗村は金平を宅地・田畑没収の上、磔刑とした」旨が刻まれている。 しかしながら、これは史実と多くのへだたりがみられる。 仙台藩の正史である『伊達治家記録』には下記2ヶ条が記されている。 宝暦10年(1760年)12月23日「農金平 亘理郡中泉村 黨ヲ結ヒ大肝入ノ家ニ亂入スル首謀ニゟ其所ニ磔ス」 宝暦10年10月11日「農源之助 亘理郡小山村一郡ノ者大肝入ノ処置ヲ疑惑シ黨ヲ結ヒ乱入ノ日祖父名七小山村一村ヲ教諭シ其黨ニ加ヘシメサルヲ賞シ金ヲ與フ」 これによると金平は領主伊達宗村に直訴したのではなく、宇多亘理大肝入鈴木勇喜右衛門宅に郡内の者共と乱入・襲撃したため磔に処せられたのであり、中泉村近村の小山村では名七が村の者を教え諭して一揆に加わらせなかった事を賞され、報賞金を賜ったとある。 なお、坂津田村『安永風土記御用書出』には「勇喜右衛門儀延享四年六月(1747)肝入被仰渡宝暦八年迄十二ヶ年相勤同年三月宇多亘理両郡大肝入仮役被仰渡亘理町江取移同年十一年十二月(1758)本役被仰渡安永五年(1775)迄相勤同年十月退役仕候仍肝入并大肝入両役取合延享四年より安永五年迄三十ヶ年相勤申候事」と書かれている。このことから、金平首謀の一揆は宝暦2年(1752年)ではなく、鈴木勇喜右衛門が宇田亘理大肝入に任命された宝暦8年以降の宝暦9〜10年ごろと思われる。
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