北原金平直訴事件とは? わかりやすく解説

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北原金平直訴事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:32 UTC 版)

伊達宗村 (仙台藩主)」の記事における「北原金平直訴事件」の解説

治世中に領民から年貢減免直訴受けたという逸話伝えられている。亘理町逢隈中泉八幡神社にある「義民北原金平顕彰碑」の碑文には、「宝暦2年1752年)、仙台藩大凶作に見舞われた。このため亘理郡中泉村農民北原金平年貢軽くして欲しいとの直訴受けたが、参勤交代帰途での直訴であったため、宗村金平宅地田畑没収の上磔刑とした」旨が刻まれている。 しかしながら、これは史実多くへだたりみられる仙台藩正史である『伊達治家記録』には下記2ヶ条が記されている。 宝暦10年1760年12月23日「農金平 亘理郡中泉村 黨ヲ結ヒ大肝入ノ家ニ亂入スル首謀ニゟ其所ニ磔ス」 宝暦10年10月11日「農源之助 亘理郡小山村一郡ノ者大肝入処置疑惑シ黨ヲ結ヒ乱入ノ日祖父名七小山村一村教諭シ其黨ニ加ヘシメサルヲ賞シ金ヲ與フ」 これによると金平は領主伊達宗村直訴したのではなく宇多亘理肝入鈴木喜右衛門宅に郡内者共乱入襲撃したため磔に処せられたのであり、中泉村近村小山村では名七がの者を教え諭して一揆に加わらせなかった事を賞され報賞金を賜ったとある。 なお、坂津田安永風土記御用書出』には「勇喜右衛門延享四年六月(1747)肝入被仰渡宝暦八年十二ヶ年相勤同年三月宇多亘理両郡大肝入仮役被仰渡亘理町江取移同年十一十二月(1758)本役被仰渡安永五年(1775)迄相勤同年十月退役仕候仍肝入并大肝入両役取合延享年より安永五年迄三十ヶ年相勤申候事」と書かれている。このことから、金平首謀一揆宝暦2年1752年ではなく鈴木喜右衛門宇田亘理肝入任命され宝暦8年以降宝暦9〜10年ごろと思われる

※この「北原金平直訴事件」の解説は、「伊達宗村 (仙台藩主)」の解説の一部です。
「北原金平直訴事件」を含む「伊達宗村 (仙台藩主)」の記事については、「伊達宗村 (仙台藩主)」の概要を参照ください。

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