山川イズム
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山川は「無産階級運動の方向転換」などを発表、大衆運動との結びつきを重視する「方向転換論」(山川イズム)を提唱した。しかしまもなく解党論の中心となり、1924年(大正13年)に共産党はいったん解散する。その後福本和夫の提唱する党建設重視の福本イズムに基づき共産党が再建されたが(第二次共産党)、これに距離を置き参加しなかった山川は「日和見主義者」「解党主義者」として共産党主流派から厳しい批判を受けるようになった。これに対し山川は堺、荒畑寒村、猪俣津南雄らと1927年(昭和2年)に『労農』を創刊し、共同戦線党論を展開する。1935年、神奈川県村岡村(現・藤沢市)に借地を手に入れ、翌年妻とともに転居し、ウズラの飼育施設を設けて生計を立てるようになる。1935年の時点でマスコミからは山川が文筆を捨ててウズラ飼育を始めるという報道がなされ、これに対して山川は「転向常習者の手記」を発表し、自らの立場を述べた。1937年(昭和12年)、人民戦線事件で検挙。
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