無罪判決と余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:43 UTC 版)
強引な運用によって合法活動を検挙したため、現場は少なからぬ混乱に見舞われた。原因は起訴・不起訴の基準がはっきりしなかったためである。岡山地検からは「労農派グループを結社と認むるかの可否」、秋田地裁からは「所謂人民戦線運動は治安維持法第1条の適用を受くるものなりや否や」といった声があがった。強引な検挙は裏目に出て、教授グループ事件を中心に次々と無罪判決が出された。 これに不服だった思想検事たちは、1938年頃から再び動き始めた治安維持法改正の目標に突き進んでいった。(ただし、法改正の動機はこれだけではなく、特別高等警察が常用した被疑者の不法拘束・拷問が議会で問題視されたので規制せざるを得なくなったこと、今の治安維持法は使い勝手が悪いからもっと楽に検挙できる法律に変えたい、更には「類似宗教」(新興の民衆宗教)団体を検挙する際に治安維持法の適用は無理なので同法違反となるように改正したいという思想検事の要求、裁判所の令状を不要とする強制捜査権を検事に与えたい司法省の思惑なども絡んでいる。)
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