赤間信義とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 赤間信義の意味・解説 

赤間信義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 03:32 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
あかま のぶよし
赤間 信義
生誕 (1889-01-21) 1889年1月21日
富山県
死没 (1942-12-30) 1942年12月30日(53歳没)
国籍 日本
出身校東京帝国大学法科大学
職業官吏
団体日華学会
肩書き従三位勲二等
配偶者ミドリ(南日恒太郎長女)
子供義洋(長男)、道(長女)、義健(次男・赤間徳寿養子)、義邦(三男)、慶子(次女)

赤間 信義(あかま のぶよし、1889年明治22年)1月21日1942年昭和17年)12月30日)は、日本の文部官僚

経歴

富山県出身[1]1914年大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入り、山梨県属、山梨県理事官を務めた。1919年(大正8年)、文部省に転じ、参事官に任じられた。外務書記官文部大臣秘書官兼任を経て、1928年(昭和3年)、実業学務局長に就任。翌年、専門学務局長に転じ、1936年(昭和11年)に退官するまで、在任した。

その他、中国満州国からの留学生受け入れ団体である財団法人日華学会の理事を務め、同学会の運営する東亜学校の学監となった。1938年(昭和13年)からは日本占領下の華北に創設された東亜文化協議会の事務局長、ついで総務部長を務めた。

1940年(昭和15年)、文部次官に就任。退官後は日華学会理事長を務めた。

栄典

赤間信義

脚注

  1. ^ 人事興信所編『人事興信録 第13版 下巻』人事興信所、1941年
  2. ^ 『官報』第4796号「叙任及辞令」1943年1月11日。

参考文献

公職
先代:
大村清一
文部次官
教員検定委員会会長
維新史料編纂事務局長
学校衛生調査会会長
震災予防評議会会長
演劇、映画、音楽等改善委員会会長
国史館造営委員会会長

1940年
次代:
菊池豊三郎
その他の役職
先代:
(新設)
日華学会理事長
1941年 - 1942年
次代:
杉栄三郎
先代:
杉栄三郎
東亜学校学監
1937年 - 1940年
次代:
杉栄三郎



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「赤間信義」の関連用語

赤間信義のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



赤間信義のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの赤間信義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS