矢田部良吉とは? わかりやすく解説

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やたべ‐りょうきち〔‐リヤウキチ〕【矢田部良吉】

読み方:やたべりょうきち

[1851〜1899]植物学者詩人静岡生まれ東大教授。号、尚今。植物標本収集分類学基礎築き、「日本植物図解」を著す。明治15年(1882)井上哲次郎外山正一と「新体詩抄」を刊行新体詩運動の先駆をなした。

矢田部良吉の画像

矢田部良吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/02 17:52 UTC 版)

矢田部 良吉
生誕 1851年10月13日嘉永4年9月19日
伊豆国田方郡韮山(現・静岡県伊豆の国市
死没 (1899-08-08) 1899年8月8日(47歳没)
神奈川県鎌倉
国籍 日本
研究分野 植物学
研究機関 東京大学理学部帝国大学理科大学
高等師範学校
出身校 コーネル大学理学士
命名者名略表記
(植物学)
Yatabe
配偶者 録子(先妻)、順(後妻)
子供 俊二(次男)、達郎(四男)、勁吉(五男)
プロジェクト:人物伝
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矢田部 良吉(やたべ りょうきち、1851年10月13日嘉永4年9月19日) - 1899年明治32年)8月8日[1])は明治時代の日本の植物学者詩人理学博士。植物学者としてはいくつかの命名を行い、たとえばアジサイ科キレンゲショウマの学名 (Kirengeshoma palmata Yatabe) が彼によるものである[2]

人物

1851年10月13日(嘉永4年9月19日)、伊豆国田方郡韮山(現・静岡県伊豆の国市)に生まれる。1857年(安政4年)、父・卿雲が没したため、母の実家である沼津の原川家に身を寄せる[3]。1864年(元治元年)、江戸へ出て江川家に住み、中浜万次郎三宅秀大鳥圭介らに英語と数学を学び、さらに横浜語学所で引き続き学んだ[3]

1869年明治2年)、開成学校教官、大学校助教となる[3]1871年(明治4年)、森有礼に随行してアメリカ合衆国に渡り、翌年よりコーネル大学で植物学を学ぶ。1876年(明治9年)6月にコーネル大学を卒業し、8月に帰国。9月に東京開成学校五等教授となり、12月には東京博物館(現・国立科学博物館)の館長に任ぜられる[3]

1877年(明治10年)8月、東京大学理学部教授となる。1879年(明治12年)1月、博物館長を解任される(後任は箕作秋坪[3]1882年(明治15年)2月25日、東京植物学会(現・日本植物学会)を設立し、会長に就任。8月、外山正一井上哲次郎とともに『新体詩抄』を上梓した。ローマ字論者でもあり、1885年(明治18年)1月17日には羅馬字会を設立して神田乃武とともに幹事に選出された[3]1886年(明治19年)12月より訓盲唖院(後の東京盲唖学校)校長、1888年(明治21年)3月より東京高等女学校校長を兼任[3]。5月、理学博士号を授与される。

1888年に帝大植物学教室に出入りしていた伊藤篤太郎を出入り禁止とする(トガクシソウ「破門草事件」)。1890年(明治23年)6月、東京盲唖学校校長を辞任。11月、東京大学に出入りして研究をしていた牧野富太郎に対し、大学の書籍・標本を使って自著を編纂することを止めさせる[3]

1891年(明治24年)3月、教授職を非職となる[注釈 1]1894年(明治27年)3月、非職満期により免官。1895年(明治28年)4月、東京高等師範学校教授となり、1898年(明治31年)6月には同校校長となる[3]

1899年(明治32年)8月7日、鎌倉沖で遊泳中に溺死[4]。8月10日に葬儀が行われ、三好学・乾環(松村任三の代理)・小山作之助学士会後藤牧太上真行らにより弔辞が寄せられた[3]

家族

  • 父・矢田部卿雲(1819–1857) - 蘭学者。武蔵国勅使河原(現・埼玉県児玉郡上里町)の農家の出だが、江戸で蘭学に通じたことで、反射炉の築造で著名な韮山代官・江川英龍に重用された[5][3]
  • 母・満寿 - 沼津藩士・原川氏の出[3]
  • 前妻・録子(1858-1887) - 医師・金沢良斎(永孝)の娘。良斎(1839年生)は岐阜出身の医師で、勝海舟の主治医[6]。1878年に結婚。1887年10月に死別[3]
  • 後妻・順(1869-1959)[7] - 裁判官・柳田直平の娘。男爵安東貞美の姪。1887年12月に鳩山和夫鳩山春子夫妻を媒酌人として縁組し、1888年5月に結婚。相婿に柳田国男[3]
  • 長女・文(1879-1885) - 夭折[3]
  • 長男・秀吉(1881年) - 夭折[3]
  • 次女・密(1882-?)[3]
  • 二男・俊二(1887-?) - 画家[8]
  • 三男・雄吉(1890-1909)[3][9]
  • 四男・達郎(1893-1958) - 心理学者
  • 五男・勁吉(1896-1980) - 音楽家
  • 六男・敏夫(1899-?)[3]

栄典

トガクシソウ「破門草事件」

東京大学教授の伊藤圭介の孫で本草学者の伊藤篤太郎は、東京大学植物学教室に出入りを許された在野の植物学者だった。伊藤篤太郎は、自分の叔父の伊藤謙が1875年(明治8年)にトガクシソウ戸隠山で採集し、小石川植物園に植栽した標本を、1883年(明治16年)にロシアの植物学者マキシモヴィッチに送り、マキシモヴィッチは1886年にロシアの学術誌「サンクト・ペテルブルク帝国科学院生物学会雑誌」にPodophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. として、メギ科ミヤオソウ属の一種として発表した[13]

東京大学教授だった矢田部良吉も1884年(明治17年)に戸隠山でトガクシソウを採集し、小石川植物園に植栽した。2年後の1886年(明治19年)に開花し、1887年(明治20年)にマキシモヴィッチに標本を送り、鑑定を仰いだところ、翌1888年(明治21年)3月、マキシモヴィッチは「本種はメギ科の新属であると考えられ、Yatabea japonica Maxim. の学名をつけたいが、正式な発表前に花の標本を送ってほしい」と回答した[13]

伊藤はこの矢田部の動きを聞き、既に自分が発表したPodophyllum japonicum がミヤオソウ属の一種ではなく新属であることを知り、また、新属名が Yatabea と矢田部に献名される予定であることを知った。伊藤は、叔父が採集し、自分が最初に学名をつけた植物の学名が矢田部に献名されることにあせり、1888年(明治21年)10月に、イギリスの植物学雑誌 Journal of Botany, British and Foreign 誌に、新属 Ranzania T.Itô を提唱し、Podophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. (1887) をこの属に移し、新組み合わせ名 Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô (1888) として発表した[13][14]

マキシモヴィッチによる Yatabea japonica Maxim.は、伊藤による発表の後であるため、この学名は無効となり公にならなかった。矢田部はこのことを知って怒り、伊藤篤太郎を植物学教室の出入り禁止処分にした。トガクシソウは俗に「破門草」という隠れた名前がある[13]

著作

著書・編書

訳書

関連文献

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 停職、帝国大学理科大学学長菊池大麓との確執といわれるが原因の詳細は不明。

出典

  1. ^ 矢田部良吉”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2024年8月10日閲覧。
  2. ^ 米倉浩司・梶田忠 (2007-). 「植物和名ー学名インデックスYList」(YList) 2023年5月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 矢田部良吉年譜稿太田由佳・有賀暢迪、国立科学博物館、2016
  4. ^ 明治32年8月9日国民新聞『新聞集成明治編年史. 第十卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  5. ^ 第1章 洋学修行矢田部良吉デジタルアーカイブ
  6. ^ 県重宝 旧三上家住宅三上剛太郎 生誕150年 特設サイト
  7. ^ 『定本柳田国男集 別巻 第5』(筑摩書房、1971年)p.660
  8. ^ 矢田部俊二近代日本版画家名覧(1900-1945)、版画堂
  9. ^ 王京「柳田国男と中国―1920年代以前を中心に―」(国際常民文化研究叢書4、2013年3月)
  10. ^ a b c 「履歴書」(『近代文学研究叢書 第4巻』)。
  11. ^ 『官報』第628号、1885年8月4日、35頁
  12. ^ 『官報』第3236号、1894年4月17日、189頁
  13. ^ a b c d 『伊藤篤太郎―初めて植物に学名を与えた日本人』八坂書房、2016年3月1日。 
  14. ^ YList 植物和名-学名インデックス:簡易検索結果”. ylist.info. 2023年3月18日閲覧。

外部リンク

公職
先代
矢田部良吉
東京大学植物園管理
帝国大学理科大学植物園管理
1886年 - 1891年
帝国大学理科大学植物園監督心得
1886年
次代
松村任三
先代
大窪実
訓盲唖院主幹
東京盲唖学校長
1887年 - 1890年
訓盲唖院主幹
1886年 - 1887年
次代
伊沢修二
先代
箕作佳吉
東京高等女学校
1888年 - 1890年
次代
岡五郎
女子高等師範学校附属学校主任
学職
先代
(新設)
東京植物学会会長
1882年 - 1892年
次代
松村任三
先代
(新設)
東京大学生物学会会長
1878年 - 1882年
次代
箕作佳吉
東京生物学会会頭

矢田部良吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 02:08 UTC 版)

日本その日その日」の記事における「矢田部良吉」の解説

東京大学植物学教授1878年北海道への旅に同行

※この「矢田部良吉」の解説は、「日本その日その日」の解説の一部です。
「矢田部良吉」を含む「日本その日その日」の記事については、「日本その日その日」の概要を参照ください。

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