しんたいししょう〔シンタイシセウ〕【新体詩抄】
新体詩抄
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新体詩抄(しんたいししょう)とは、外山正一(ヽ山仙士)・矢田部良吉(尚今居士)・井上哲次郎(巽軒居士)による新体詩集。3人の撰者による序文と、訳詩14編、創作詩5編を収める。出版社は「丸屋善七」(現・丸善)であり、1882年(明治15年)8月に初編が出版された[注釈 1]。近代詩論の先駆け、日本で最初の近代詩集とされる。
注釈
- ^ 7月に板権免許を受けており、本の扉には「明治十五年七月刊行」と記載されているが、出版広告文に8月16日、奥付に8月出版と記されたように、実際には8月に出版された[1]。
- ^ 外山は、序文の中で自身が新体詩という文学ジャンルを確立したことの自負と自信を記している[4]。
- ^ 実際には表題は附せられていない。
- ^ 再版に正誤はない[10]。
出典
新体詩抄
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幕末に維新の志士が都々逸などの俗謡に倣い自由な詩を作っており、明治初期には西洋の詩が漢詩の形式で和訳され、中村敬宇『嶽南集』(1870年)ではオリヴァー・ゴールドスミス「僻村牧師歌」、ロングフェロー「打鉄匠歌」などを、末松謙澄がシェリー「雲雀の詩」を訳出している。また1877年(明治10年)前後に翻訳されたキリスト教の賛美歌は、七五調(プロテスタント系)や三十一文字(カトリック系)の詩型が用いられた。 矢田部良吉や外山正一は、アメリカでダーウィンやスペンサーの社会進化論を学び、文学改良運動の一つとしてアルフレッド・テニスンなどの訳詩や、外山ゝ山(とやまちゅざん)の創作「社会学の原理に題す」などによる『新体詩抄』を1882年に刊行した。『新体詩抄』の作品は、従来の日本詩歌の花鳥風月や叙情の枠を離れて、思想的、抽象的な内容を取り入れ、律格は七五調であるが、スタンザ形式や押韻、リフレインを取り入れたものだった。作品としては「駄作の偶集にすぎなかった」(日夏耿之介『明治大正詩史』)とも後年評されるが、七五調という以外に何の規定も無いことで、これを再編増補した竹内隆信編『新体詩歌』とも当時の若者に多くの影響を与えた。湯浅半月は同志社大学在学中に、英語教師山崎為徳によりジョン・ミルトンの影響を受け、旧約聖書の故事を素材にした五七調689行の叙事詩『十二の石塚』を作っており、製作時期は『新体詩抄』以前であり、またこの長詩は「朗々吟ずるに足る出来栄えであって、日本近代詩の出発とするにふさわしい」(由良君美)と評されている。続いて小室屈山「自由の歌」や、硯友社系の文学者丸岡九華、山田美妙なども作品を発表し、植木枝盛は当時の自由民権思想を盛り込んだ作品を作った。 「新体詩(新體詩)」という名前は、井上の発案によるもので、「在来の長歌、若しくは短歌等とは異なった一種新体の詩なるがゆえ」「昔より在り来りの詩歌に異なりたる詩的の作は皆之を称して新体詩と謂わむとするのが我々の考えでありました」と述べられている。新体詩の呼び名は1907、8年頃まで使われ、やがて短歌に対する「長詩」と呼ばれ、その後単に「詩」となった。
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