英語教師・言語学者として
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「佐伯好郎」の記事における「英語教師・言語学者として」の解説
翌1896年に帰国した佐伯は、母校・東京専門学校および和仏法律学校(現・法政大学)などの英語科に出講し、正宗白鳥らの学生を教えた。その後彼は矢田部良吉に認められ、1897年春、高等師範学校(現・筑波大学)に招かれ講師となった。しかし1899年9月には同校を辞職し、かねてから尊敬していた内村鑑三が校長を務める独立女学校(現・東海大学付属望洋高等学校)の教頭となった。また内村が主筆をしていた東京独立雑誌の社員になった。しかし佐伯はほどなくしてある問題で内村と正面衝突し1902年には同校を退職、再び東京高師の講師に復帰して同校の附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の英語科主任となり、鳩山一郎らを教えた。その後1907年〜08年の欧州視察を経て1913年(大正2年)には第五高等学校(現・熊本大学)教授、1916年以降東京高等工業学校〈現・東京工業大学〉で教鞭を執り、1922年より明治大学法学部で講師として新設の羅馬法講座を担当した。
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