井伏鱒二との関係悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
「太宰治と自殺」の記事における「井伏鱒二との関係悪化」の解説
1947年9月頃から太宰と井伏との関係がぎくしゃくし始めていた。理由としては妻、美知子との婚姻をバックアップし、実家とのパイプを持ち太宰の監督者のような立場にあった井伏に対し、太田静子や山崎富栄と深い関係となって以降、「世間体を代表する」姿を見てうとましさを感じるようになったこと。また太宰が中心となって進めていた「井伏鱒二選集」の編集に際して、井伏の創作態度に疑問を持ちようになったこと、また太宰の作品に対する井伏の評価を聞いて不信感を感じた可能性が指摘されている。 太宰の妻、美知子から青森県近代文学館に寄贈された昭和23年度の太宰の手帖には「如是我聞」の下書きとして、激しい井伏批判を展開している。「井伏鱒二選集」第二巻の編集後記では「青ヶ島大概記」に関して井伏を痛烈にあてこすっている。また後述のように太宰の死後に発見された遺書の下書きには「井伏さんは悪人です」と書かれていた。 しかし「如是我聞」で井伏批判が展開されることは無かった。昭和23年度の手帖の中にはこれまでの井伏の恩義に対して感謝する書き込みもあり、太宰は井伏に対する強い不信感を感じながらも、断罪し切ることは出来なかった。結局、「如是我聞」では批判すべき世間体を代表する作家として、井伏鱒二ではなく志賀直哉が俎上に上げられることになった考えられる。
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