井伏とオオサンショウウオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:29 UTC 版)
「山椒魚 (小説)」の記事における「井伏とオオサンショウウオ」の解説
井伏は「山椒魚」を、実際の山椒魚(オオサンショウウオ)を目にした中学時代の体験を踏まえて執筆している。県立福山中学校に入学したばかりの井伏は、中学の池で飼われているオオサンショウウオ(ハンザキ)が餌の蛙を一呑みにするのが面白く、先生にも無断でこっそり蛙を与えるようになった。このオオサンショウウオに関して、あるとき井伏は寄宿舎で同室であった宮原哲三と「山椒魚が噛みつくと、雷が鳴っても放さん」という話が本当であるかどうかで口論になった。そこで藺草(イグサ)で縄を作ってその先に蛙を結びつけ実際に試してみたところ、井伏が主張したとおり、雷鳴が起こっても山椒魚は餌を放さなかった。しかし宮原がよく観察してみると、それは山椒魚の口の奥まで尖った歯が何百本もびっしり生えていてそれが餌に食い込んでいるためで、山椒魚が口を開いても蛙は逃げることができず、したがって雷とは別に関係がない、ということがわかった。井伏は「山椒魚」の原型となる作品を手がけたとき、彼自身が餌を与えたこのオオサンショウウオの図体や、1年や2年は餌を食べなくても生きているという生態、ひもじくなると自分の指を食うという言い伝えなどを意識に入れて書いたと回想している。 物語の主人公である山椒魚、および彼の幽閉生活には、執筆当時の井伏自身の状況の反映を見ることもできる。「幽閉」をはじめに書いた1919年(大正8年)までに、井伏はすでに画家の夢を諦めるという挫折を経験し、また美術学校の女生徒への失恋を経験していた。「幽閉」を『世紀』に発表した1923年(大正12年)当時は、井伏は定職もない無名の作家として生活していた。その前年には片上伸教授に憎まれたことによって早稲田大学から退学に追い込まれて復学も不可能となり、兄からの経済的援助も絶たれ、また親友・青木南八を病で失うという不幸も経験している。おりしもロシア革命の影響と経済不況の波が押し寄せており、時代的にも閉塞状況にあった。「山椒魚」発表前の1927年(昭和2年)前後には、井伏が参加していた同人雑誌『陣痛時代』が『戦闘文学』と改題したうえで井伏を除く全員が左傾化し、井伏は一人取り残され脱退を余儀なくされている。1928年(昭和3年)の「鯉」、1929年(昭和4年)の「山椒魚」「屋根の上のサワン」などによって好評を受けるようになるものの、それまでは明日どうなるかもわからない無名作家としての生活を続けていた。「山椒魚」の冒頭近くには、「人々は思ひぞ屈せし場合、部屋のなかを屢屢(しばしば)こんな具合に歩きまはるものである」という文があるが、「山椒魚」はこのような作者の生活、世に出られない焦り、そして時代の閉塞からくる「思ひぞ屈した」状況を反映しているものと考えられる。そのような「思ひぞ屈した」感情はまた井伏の初期作品に共通するユーモアの基底をなしているものでもあるが、しかし中村光夫は井伏と「山椒魚」について次のように述べている。「氏の「思ひぞ屈した」憂鬱は、この醜い両棲類に代置されることで、明瞭な形を与へられ、自己を限定され、理想化されたので、この点では氏の後の小説のどの主人公も、この一匹の山椒魚に及ばないのです」。
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