政党としてのTELO
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:11 UTC 版)
「タミル・イーラム解放機構」の記事における「政党としてのTELO」の解説
スリ・サバラトナムの死後、セルヴァム・アダイカラナサンがTELOの指導者となった。アダイカラナサンは、IPKFが撤退して幹部らが散り散りになったTELOはもはや復活しえないと判断し、政党として再出発することを選んだ。 TELOは、1989年の議会選挙にイーラム国民民主解放戦線、EPRLF、タミル統一解放戦線と選挙同盟を結んで参加した。この選挙同盟は188,593票(3.40%)を獲得し、225議席中10議席を確保した。このうち2議席がTELOのものであった。 続いて1994年の議会選挙にはEROSおよびタミル・イーラム人民解放機構と選挙同盟を結んで参加したが、得票は伸びず選挙同盟として38,028票(0.48%)を獲得して225議席中3議席を確保したに留まった。また、TELOは議席を確保できなかった。 2000年の議会選挙では単独で参加し、26,112票(0.30%)を獲得して225議席中3議席を確保した。 TELOは、過去の経緯もあってしばらくは反LTTEの立場であったが、1990年代中盤以降、親LTTEに転向した。2001年には、LTTEと相互支援を行うタミル独立派政党連合のタミル国民連合に加入した。アダイカラナサンはインタビューの中で、なぜ反LTTEから親LTTEに転向したのかについて、TELOはかつての血生臭い抗争を受け入れることも、LTTEの行為を忘れることも決してないが、タミル人の独立達成はすべてのタミル人組織が互いの主張の違いを脇に置いて団結し、共同戦線を張った場合にのみ成し得るものであり、したがってLTTEと反目することは独立を求めるタミル人を裏切るものであるからだ、と説明した。
※この「政党としてのTELO」の解説は、「タミル・イーラム解放機構」の解説の一部です。
「政党としてのTELO」を含む「タミル・イーラム解放機構」の記事については、「タミル・イーラム解放機構」の概要を参照ください。
- 政党としてのTELOのページへのリンク