代官の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:51 UTC 版)
秀吉の死後、長崎は関ヶ原の戦いを経て最高権力者となった徳川家康の直轄領となった。 慶長9年(1604年)に、等安は家康に謁見し、改めて長崎の代官を勤めることを許された。その後も等安は貿易により財を蓄えたが、末次平蔵の訴えにより、キリシタンの擁護と大坂の豊臣方に内通した嫌疑で元和5年(1619年)江戸で斬首。彼の一族も長崎において処刑された。 村山に代わって末次平蔵政直が長崎代官となり、以後4代に渡って代官職を務めるが、延宝4年(1676年)に密貿易が発覚し、4代茂朝とその一族や関係者は処罰された。末次家の処罰後、代官職は長崎の町年寄が代行した。 元文4年(1739年)、長崎町年寄の高木作右衛門忠与(忠與)が、長崎の近郊の幕府領3000石の代官に任命され、以後は高木家の世襲となった。
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