最初期の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:54 UTC 版)
ランゴバルド人の原住地が、その古伝承通りスカンディナヴィア半島南部(Schonen スコネン)であることは今日ほぼ確定されている。人口過剰、土地の不足のため、彼らの一部がイボル(Ybor)とアギオ(Agio)と言う首長に率いられて古郷を離れ、スコリンガ(Scoringa)と呼ばれる地に勢力を持っていたヴァンダル人と戦ってこれを打ち破った。このスコリンガは、現在のオーデル川とヴィスワ川(ヴァイクセル川)の間の海岸地方であったと推定されている。ヴァンダル人を撃破した後、前150年-前100年頃には、ランゴバルド人はマウリンガ(Mauringa)と呼ばれた地に居住していた。この地は現在のエルベ川左岸のリューネブルク地方とメクレンブルク地方に相当すると考えられる。ランゴバルド人は現地人と戦闘を交えつつ混住するようになり、スエビ部族連合を構成する一部族となった。ローマ人の記録者はいずれもこの時期のランゴバルド人をスエビ人の一支族と見做している。ランゴバルド人は前1世紀前半にスエビ人がウシペテース人(英語版)と戦ってライン川流域に進出した際には、恐らくその一部として加わっていたものと推定される。 その後のランゴバルド人の動向については、ローマ人による断片的な記録しかない。彼らは少数であったが、その武勇によって独立を維持した高貴な部族であるとタキトゥスは記録する。 「このセムノーネースに反して、ランゴバルディーの高貴さを有名ならしめているのは、その少数さである。きわめて多数の、しかもきわめて強大な国々に囲まれながら、彼らは服属によらず、かえって戦争と冒険(戦争の危険を冒すこと)によって、おのれの安全を保っているのである。(タキトゥス)」 ランゴバルド人は西暦5年にティベリウス率いるローマ軍の攻撃を受けて一時的にエルベ川の右岸へ逃れた。そして西暦9年にトイトブルク森の戦いでローマ軍が敗退しその脅威が和らぐと、再びエルベ川左岸に帰還した。17年にはスエビ部族連合から離脱し、アルミニウス率いるケルスキー族(英語版)と結び、スエビ人を打ち破った。更に47年にはケルスキー族の内紛に介入し、追放された王イタリクスをケルスキー族の王に復位させた。その後、166年にオビイ族(英語版)と共に6,000人の兵力でパンノニアを攻撃したが、ローマ軍に敗れ故地に撤退したことが伝えられる。この後、いわゆる民族移動時代である5世紀まで、ランゴバルド人の動向は全く記録に登場しない。
※この「最初期の歴史」の解説は、「ランゴバルド人」の解説の一部です。
「最初期の歴史」を含む「ランゴバルド人」の記事については、「ランゴバルド人」の概要を参照ください。
- 最初期の歴史のページへのリンク